姜維(202~264年 字は伯約 雍州 天水郡 冀県の人)、蜀の終焉を彩る悲運の名将[1]『三国志Ⅲ武将FILE』光栄
姜冏 魏に殉じた父
姜維の父。郡の功曹[2]郡の長官「太守」の部下。郡の人事局長が「功曹」(人材発掘のため地元出身者を任命)。姜一族には魏の傭兵が多かった。羌族の反乱に赴き、部下をかばい戦死する。魏はその功を讃え、息子の姜維に中朗[3]平時には宮殿の門戸を守り、戦時には戦車や騎兵に充てられる。の官を贈り、本軍の軍事に参与させた。
幼くして父を失った姜維は無類の親孝行者としても知られる。ただし、その母とは蜀帰順の際が今生の別れとなった。
第二次北征で蜀は結果的には敗れ撤退するが、その際に天水と西県の住民数千人を捕虜ともども蜀に強制移住させようとした。それに対し住民たちは住み慣れた土地を離れることに抵抗し逃亡した。その中に姜維の母や親族も含まれ、気丈な母は、姜家が代々魏の禄をはんできた点を考慮し、長年の魏への恩から姜維に一緒に逃亡することをすすめるが、姜維は承知せず、母との永遠の別れとなってしまうのにもかかわらず、蜀に帰順した。
馬遵 孔明による離間の計
天水の太守。蜀に投降するきっかけを作った武将。
建興6年(228年)、諸葛亮が祁山に侵攻(第二次北伐)、天水・南安・上邽の三郡はたちまち蜀軍に味方した。姜維は天水太守・馬遵に従って郡内を巡察していたが、馬遵は姜維に謀反の疑いをかけていた。馬遵は孔明と蜀軍10万におびえて上邽に立て籠ってしまったので、見捨てられた姜維は故郷・冀県に戻るが、受け入れてもらえず、やむなく孔明に降った。このとき姜維27才、たかだか小隊長でしかなかった。
諸葛亮 孔明の弟子・姜伯約
姜維は諸葛亮の片腕として北伐に随行し、その軍略を身をもって学んだ。
諸葛孔明による幕下に加わって1年後の人事考課「姜伯約、時事に忠勤にして、思慮精密なり 其の有るところを考うるに、諸将の如かざるものあり」(姜維は、時勢に対する判断が的確で、、気配りが細やかで、リーダーシップもある。凡庸な武将にはない才能をもっている)蜀志・姜維伝
諸葛孔明による幕下に加わって2年後の人事考課「姜伯約、甚だ軍事に敏にして、すでに膽義あり、深く兵の意を解す。此の人 心漢室に存し、而うして才 人に兼ねたり」(軍事に秀で、豪胆にして勇敢、兵士から慕われ、漢王室への忠誠心が厚く、非凡な才能をもっている)蜀志・姜維伝
姜維の才能は、馬謖の兄である馬良をしのぐとも評してもいる。
自らが著した兵法書のすべてを姜維に託した。🈦
『演義』になれ親しんでいる中国民衆のあいだでは、姜維は、孔明よりも、魏に果敢に挑んだ武将として、きわめて高く評価されている[4]『三国志の男たち』PHP研究所。
趙雲 姜維と互角の腕前
『演義』では、五虎将軍の一人・趙雲と一騎打ちして互角の腕前。
司馬懿 死せる孔明、生ける仲達を走らす
建興12年(234年)8月、諸葛亮が五丈原に没すると、姜維は退却の際、追撃する司馬懿を虚をもって欺き、その追撃を振り切った。仲達が追撃してくると、途中でわざと旗の向きを変え、突撃のラッパを吹き、太鼓を鳴らして魏軍を攻撃した。
姜維は司馬懿に対しまるで孔明が生きているかのように対応し、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」を演出した。
費褘 孔明の懐刀にして後継者
孔明の死後、タカ派[5]外交強硬派の姜維は右監軍・輔漢将軍となり蜀の兵権を握って、孔明の志を遂げんと北伐をくり返す。それに対して内政の実権を握っていたハト派[6]外交穏健派費褘は、「諸葛丞相に遠く及ばない我々に、丞相にできななかった中原平定など成し得るはずがない」とし、姜維にわずか1万の兵しか与えなかった。この結果、蜀はその後およそ20年、安定した時代となる。
孔明は姜維を高く買っていたが、自らの後継者には指名しなかった。まず挙げたのは蒋琬、次いで費禕であった。
253年正月、宰相・費禕が魏の大将軍・司馬昭の刺客によって暗殺されると、姜維は堰を切ったように北伐をくり返す。
①253年、魏の地方司令官・陳泰に敗退。
②254年、魏将・徐質に大勝したが、補給が続かず撤退。
③255年、魏の地方司令官・王経に大勝したが、救援軍に敗退。
④256年、魏の鎮西将軍・鄧艾に敗退。
⑤257年、またもや鄧艾に敗退。
⑥262年、みたび鄧艾に敗退。
255年に王経を大破させたこと以外の、北伐の数少ない成果としては、洮水の西で、魏の夏侯覇・郭淮の軍を撃破したことぐらいである。
黄皓 蜀滅亡の原因をつくった男
蜀の宦官[7]去勢された官吏。姜維が戦いに明け暮れている[8]姜維は常に戦場で兵たちと過ごし日常生活はきわめて質素だった。うちに、宮中の権力を握り、大将軍・閻宇を立てて姜維を廃することを望む。姜維もそれを察して、対魏最前線の沓中沓中にとどまって二度と蜀の都・成都に戻ることはなかった。
当時の蜀は、姜維の北伐によって、蜀の民は疲弊し、諸将の中にも厭戦気分が広まっていた。黄皓のほかにも、平尚書事・諸葛瞻[9]孔明の長子や董厥たちも姜維を召還して益州刺史に任じ、兵権を奪おうとした。
鍾会 あふれる才能と途方もない野望
蜀の景耀6年(263年)、司馬昭は鍾会を鎮西将軍に任命し、鄧艾と諸葛緒とともに蜀侵攻を開始した。魏の鄧艾・鍾会が漢中で出陣中と情報を得た姜維は、劉禅に注進するが、黄皓はこれを取り上げないように進言し、群臣は何も知らなかった。姜維は鍾会の大軍に対し天下の要害・剣閣で拠って孤軍奮闘、よく守るが、もう一方の大将・鄧艾の機動部隊が剣閣の裏道を破竹の勢いで突破し、一気に成都に突入、蜀を降伏させた。
最前線の剣閣で成都陥落の報を聞き、武装解除まで申し渡された姜維は、憤まんのあまり剣で石を叩き割った。
鍾会は姜維の抵抗に、一時は撤退を考えていたくらいだったが、成都陥落後に姜維が投降してくると厚遇した。鄧艾に先を越されたため、鄧艾を讒言によって失脚させて、実権を握り、蜀で独立することを計画した。
この逆心を見抜いた姜維は鍾会を誘って魏に反旗を翻し、のちに鍾会を殺し、蜀を復興させようという起死回生の謀略を計画した。鍾会は姜維とともに長安を目指し、その後に洛陽を襲おうと考えていたが、司馬昭はその叛意を見抜いており、10万の大軍を長安に派遣した。そんな中で、身の危険を感じた部下に鍾会も姜維も殺されてしまった。
参考:『三國志群雄錄 増補改訂版』徳間文庫カレッジなど
姜維 一騎討ち全記録[10]『絶対人に言いたくなる ろくでもない 三国志の話』KADOKAWA
10戦 6勝4分無敗 勝率60%
vs趙雲 ○ 姜維の勇敢さに趙雲は退散
vs陳泰 ○
vs司馬師 ○
vs徐質 ○
vs郭淮 ○
vs張明・花永・劉達・朱芳 △
vs鄧忠 △
vs鄂煥 △
vs鄧艾 △
vs楊欣 ○