男もほれる!魏随一の驍将・張遼について知るべき<7つのこと>




三国志

武勇に優れ、義に厚く、沈着冷静にして堅実無難、武人の美徳を兼ね備えたかのごとき人・張遼。

丁原、董卓、呂布、曹操に仕え、関羽と友情を結んだ勇将は、どのように後漢そして三国時代を駆けぬけたのか?7つの項目でまとめてみた。

生い立ち

異民族が混在する草原地帯・雁門[1]がんもん郡馬邑[2]ばゆう出身。祖先は聶壱[3]じょういつといい、前漢武帝の時代に計略をもって匈奴の全滅を計った人物だった。この作戦は失敗したが、匈奴に長く恨まれたことから、のちに子孫が姓を変えなければならなかった。張遼の智将としての素養は、この祖先に起因しているのかもしれない。

呂布を一喝!

下邳城の戦いで曹操に捕まった時。何とか生き延びようとして悪あがきする呂布に向かって「死ぬときは死ぬ」と怒鳴った。そして「撲陽城で殺せなかったのは残念だ」と言い放ち、曹操を怒らせ斬られそうになるが、劉備・関羽の仲立ちで取り止められる。曹操は縄を解き、自らの着物を与えたので、張遼は忠節を誓い臣下となった。🈦

関羽の心友

200年、関羽が曹操のもとにとどまると、徐晃とともに深い親交を結んだ。何とか手許にとどめておきたい曹操は張遼に関羽の本心を訊ねた。関羽にそういった意思がないことを知った張遼は、ありのままに報告すれば関羽は殺されると考えたが、「曹公は君であり父でもある。自分と関羽は兄弟でしかない」と思い直して、曹操に率直に関羽の気持ちを伝えた。

官渡の戦いの緒戦・白馬の戦いでは、関羽とともに先鋒を務めた。よく知られている通り、この際に関羽は袁紹軍の猛将・顔良を斬り、義理はすんだと曹操の許を去る。🈦

心配りの細やかさ

官渡の戦い後、袁紹の残党を攻撃。敵将が弱弱しいのに気がつき、投降の意思があるのではないかと考える。使者を送ると同時に、敵将の家族の安全を確保し、降伏させた。

合肥に立つ武神

合肥を守備している時、孫権の兵10万人に包囲された。ともに合肥を守っていた李典は、張遼と仲が悪く、討って出ようという張遼に沈黙して答えない。それに対して張遼は「貴公は私情を優先し国を危うくしてもいいのか。わしは思うがままに戦ってみせる」という言う。この気概に李典は感じ入り、ともに戦って勝利を得た。🈦

孫権軍10万に対し守兵は十分の一の7000人。張遼は夜襲の兵を募り、翌日わずか800騎で自分の名を呼ばわりつつ孫権の本営に突入。

敵兵を蹴散らし、孫権にせまると、孫権は一時撤退。その後張遼の兵が少ないと知ると、孫権は幾重にも包囲するように命じた。そこで張遼はまっすぐ突っ込んで血路をつくり、十数人とともに囲いの外に出た。

出られなかった配下の者が「将軍、我々を見捨てるのですか」と叫ぶ声が聞こえると、張遼は敵兵の中に再び突入して半日間戦い続けたのち彼らを救った。この時には呉の兵は張遼を恐れて戦意を失っており、道をあけて戦わなかったという。

士気の上がった魏軍は呉軍の攻撃に耐え、ついに孫権は撤退を決めた。張遼は楽進とともに追撃、孫権の間近に迫った。この危機を淩統が死に物狂いの抵抗で阻止し、孫権は命からがら逃げ延びた。

その後、張遼が病に倒れると、呉には合肥侵攻を主張する者もいたが、孫権は張遼が生きている限り戦をしようとはしなかった。江東の人々は「張遼の名を言えば泣く子も黙る」という逸話が生まれるほど張遼の名を恐れた。㊣

孫権からの最大級の賛辞

合肥であやうく殺されかかった孫権は「孟徳[4]曹操には張遼がおり、私には興覇[5]甘寧がいる」と引き合いに出すほど、高く評価していた。この孫権の言葉は、2016年に曹操が濡須[6]じゅしゅを攻撃してきた際に、甘寧が夜襲をかけて曹操の本営近くまで迫り、魏軍の心胆を寒らかしめた時に述べてたものである。㊣

 

今も残る勇姿

現在の合肥に逍遥津公園という場所がある。そこには張遼が遠く南方を見つめる騎馬像として再現されている。

参考:『三国志 きらめく群像』ちくま文庫、『三國志群雄錄 増補改訂版』徳間文庫カレッジ、『三国志 武将百傑』学研パブリッシング、『超ビジュアル!三国志人物大事典』西東社、『三國志Ⅲ Ⅳ Ⅴ Ⅵ Ⅶ Ⅷ 11 13 武将FILE』コーエーなど

脚注

脚注
1 がんもん
2 ばゆう
3 じょういつ
4 曹操
5 甘寧
6 じゅしゅ
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