【三国志】輝く才智!馬謖について知るべき〈5つのこと〉【泣いて馬謖を斬る】




三国志

生い立ち

兄は「白眉」の馬良。「白眉」とは、同類の中で最も優れているものという比喩。
 
名門である馬家出身の秀才五兄弟「馬氏の五常」の中で、白い毛が混じっている馬良が特に優れていた。関羽の参謀として活躍。さらに正史には、呉への使者となって孫権を感心させたり、異民族を帰属させるなどの功績も伝わる。
 
その五人兄弟の末弟が馬謖である。

孔明に最も愛された若者

諸葛亮孔明は国家的にはおとなしくて目立たない人物ばかり推奨する癖があった。一方個人的には自分が知識人で秀才であるから、一種のインテリ好みがあった。
 
その孔明が最もおきに召した青年が馬謖であった。
 
若くて、頭が良くて、軍事理論好き…馬謖とは半日終夜語り合っても飽きることがなかったと言う。蜀の名だたる家臣武将の中で、そのような扱いを受けた人物は馬謖一人である。
 
馬謖は、兄・馬良と同じように、諸葛亮を「尊兄」と呼んでいる。しかし、どちらかと言うと、父と子のような関係だったようだ。
 
実は馬謖を評価していたのは孔明だけではないが、劉備は、自らの死に臨んで、諸葛孔明に「馬謖は言葉ばかりで内実が伴わないから重用しないように」と忠告していた。

疑いなき才智

南征に陣中見舞いに訪れ、そのまま参軍として加わり、孟獲の心を帰順させることを孔明に進言。「用兵の道は心を攻めるを上策、城を攻めるを下策と言います」
 
南征の成功と蜀の安定につながり、諸葛亮から一目置かれている。

司馬懿を失脚させる才

魏で曹叡が帝位につき、司馬懿が軍事司令官に任命されると、曹叡を疑心暗鬼に陥らせて司馬懿を失脚させるという計略を孔明に献策。実行され、司馬懿は官職を剥奪された。
 
こういったあふれる才能と成功によって馬謖は過剰な自信をつけてしまった。これが命取りになる。

街亭の敗北

228年の第一次北伐に中参軍・安遠将軍として従軍。志願して戦略上の要衝・街亭防衛の大役を得た。ところが、功を焦って、諸葛亮の指示を無視した上に、副将・王平のアドバイスにも聞く耳を持たず、山頂に陣取ると言う愚策をとってしまう。
 
いや 丞相は少し 心配しすぎじゃ やっと人が通れるほどの 山道がいくつかあるだけ こんな所に魏軍が大軍など差し向けるものか
(横山光輝『三国志』52巻「馬謖の誤算」)
 
結果、張郃に包囲され水源を断たれ大敗してしまう。頭でっかちの馬謖がたたき上げの実践家・張郃に敗れたのである。
 
才人、才におぼれるの好例である。[1]銀河英雄伝説のアンドリュー・フォークを思い起こさせる…
 
馬謖は敗戦の責任を取らされた。孔明は、軍律を明らかにするため、蒋琬の制止をふりきり、泣く泣く馬謖を処刑した。[2] … Continue reading
 
正史によれば、「街亭の守りには経験豊かな魏延か呉懿を」という声があったが、孔明が馬謖に決めたという。
 
参考:『三国志 きらめく群像』ちくま文庫、『三國志群雄錄 増補改訂版』徳間文庫カレッジ、『三国志 武将百傑』学研パブリッシング、『超ビジュアル!三国志人物大事典』西東社、『マンガ図解三国志「武将」大百科』宝島社、『三國志Ⅲ Ⅳ Ⅴ Ⅵ Ⅶ Ⅷ 11 13 武将FILE』コーエーなど

脚注

脚注
1 銀河英雄伝説のアンドリュー・フォークを思い起こさせる…
2 馬謖の死に関しては謎がある。正史には三つの説があるのだ。1北伐をめぐる罪で殺されたという説2友人である向朗が協力した逃亡説。街亭での敗戦の罪を恐れた馬謖はそのまま逃げた。向朗はその事情を知りながら孔明に報告しなかった。孔明はこれを問題視し、向朗を免官して成都に還し、やがて馬謖は捕らえられた。3獄中死亡説
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