漢王室の末裔を称したとはいえ、劉備は筵を編み、草鞋を売って暮らしていた社会の下層部の出身である。
その生活は貧しく、例えば、慮植のもとに遊学するための費用は、伯父の劉元起に出してもらっていた。
このようにいわば貧乏学生、全くお金なかった劉備は、なぜ後漢末の乱世に、軍を編成して打って出ることができたのであろうか?その資金はどのように集めたのであろうか?
金が集まる人がら
劉備の性格とその魅力が、商人たちをひきよせたという点は、まずあげなくてはあるまい。
口数が少なく、よく人にへりくだり、喜怒哀楽をおもてに表さなかった。劉備は、そんな謙虚な姿勢で、好んで天下の豪傑と交わり、若者達は争って劉備のもとに集まった。
それを見込んだ中山国(河北省中南部)出身の大商人である張世平(ちょうせへい)と蘇双(そそう)は、黄巾の乱に際して劉備に多くの財を与えた。
劉備はそれを元手に人々を集め、一旗上げたのである。
糜竺との婚姻関係
なぜ劉備は糜竺の妹と結婚したのか?
この答えは簡単だ。その財力に依拠して集団を維持しようとしたからである。商人の力は、後漢末、とても大きなものになっていたからである。
劉備は糜竺という伝説的な大商人から妹を娶り、その財力を基盤としたのである。
こうして初期の劉備は、商人を尊重することで経済力を手に入れ、集団をつくったのである。
「兄」公孫瓚に学ぶ
このような資金獲得術を、劉備はどこで学んだのであろうか?
劉備はかつて公孫瓚と机を並べて、後漢末を代表する名士の慮植から儒教を学んでいました。
公孫瓚を「あにき」と慕い、賭け事や音楽にのめり込む青春を過ごしていた。
劉備が同郷同門の年長者として「兄事」した公孫瓚は、占い師の劉緯臺(りゅういだい)・絹商人の李移子(りいし)・商人の楽何当(がくかとう)を徴用し、彼らと兄弟の誓いを結んだ。
商人など社会的に地位の低い者たちと情義の結びつきを持ち、忠誠心を獲得し、集団の核としていたのだ。
言い換えれば商人の経済力を利用して軍事力を強化したといえる。
その経済力を背景に、普通の馬より値段の高い白馬で統一した騎兵集団である「白馬義従」を編成し、これを切り札として、群雄の中でも最も勢力を持つ袁紹をしばしば破っているのである。
以上が、劉備は草鞋売りから旗揚げできた理由である。
参考:『人事の三国志』朝日新聞出版ほか