残念な周瑜像
周瑜は、呉の大都督であるにも関わらず、『三国志演義』では、諸葛亮の引き立て役として残念な扱いを受けています。
『演義』に描かれる周瑜の姿は一種の道化役でした。周瑜は諸葛 亮(孔明)の多智に嫉妬し、これを亡き者にしようと計略をてるが、悉く裏をかかれて果たせません。
そしてその最期も諸葛亮から自分の策をすべて見破っているという旨の書状を送りつけられ、「天はなぜ、この世に周瑜を生みながら諸葛亮まで生んだのか」と憤慨し、興奮のあまり血を吐いてそのまま亡くなっているのです。
確かに『演義』の周瑜は、僻みっぽくて嫉妬深くて、さらには短気なキャラクターとして描かれています。
その真の実力とのギャップを考えると、『演義』による、後漢中心史観=蜀中心史観=孔明英雄史観の、最大の犠牲者かもしれません。
実際の周瑜
周瑜は三十四歳の若さで曹操を赤壁に破った呉の名将です。しかも音楽を愛する美丈夫で、ふつう「周郎」と呼ばれます。「周郎」と言えば瀟洒で典雅な美青年のことです。
「呉主孫策と同年、かつ少年のころからの親友である。長じてその配下の軍将になりました。孫策は刺客に狙撃されて、建安五年(二○○)、わずか二十六歳で命をおとしました。そのいまわのきわに、張昭と周瑜を呼んで弟の権(時に十九歳)の後見を頼みました。政治は張昭、軍事は周瑜というように。
実際の周瑜は寛大な性格で度量も広く、曹操や劉備もその才能を恐れていました。
正史『三国志』の作者である陳寿も、「他人の意見に惑わされることなく明確な見通しを立て、人々に抜きん出た存在を示したというのは、真に非凡な才能によるのである」と高く評しています。
周瑜は赤壁の戦いの翌々年三十六歳で病死しました。孫權は喪服を着けて哭泣し、その姿は左右の者たちを感動させました。孫權は自ら城外に出て周瑜の柩を出迎えました。また、葬儀の費用一切を家族に給付しました。
周瑜を失った孫權は「公瑾には王佐の資質があったが、今図らずも短命に終わった。これから孤は何を頼りにすればいいのか」と言って涙を流しました。その九年後(229)、帝号を称した彼は「周公瑾がいなければ、私は帝位に即けなかった」と故人を回想しています。
曹操と劉備による評価
劉備や曹操にとっても周瑜の存在は大きな脅威であり、彼らは所謂「褒め殺し」で君臣の離間を図りました。
劉備は周瑜の文武の才略は万人に勝り、「器量の大きさを考えれば、いつまでも人の下に仕えていますまい」と孫権に語りました。
赤壁で周瑜の采配に大敗した曹操は、「あれほどの人物に敗れたのだから、私は逃げたことを少しも恥じていない」と言って、孫權が周瑜を嫉視するように仕向けたのです。
参考:『三国志 きらめく群像』筑摩書房、『三國志群雄録 增補改訂版』徳間文庫カレッジ、『史実 三国志』宝島社