曹操、人生最大の汚点!徐州大虐殺 三国志で悪役になった決定的な理由




三国志

曹操は、父の仇討ちのため、陶謙が治める徐州へ侵攻。そこで民衆を虐殺する暴挙に出ました。これがのちに曹操の悪評を高めることとなりました。

大虐殺は本当か?嘘か?

193~195年、徐州(山東省郷城県)の牧・陶謙に父を殺害された曹操は、生涯の汚点となる前代未聞の大虐殺を実行しました。

興平元年(一九四)、曹操の父曹嵩が徐州牧陶謙の部下に殺されました。怒った曹操は、兌州を荀彧と程昱にまかせて徐州へ報復に行き、むちゃくちゃな殺戮をおこないました。この時ほどの大量徹底虐殺は中国の歴史上でもあまり例がないと言われています。

攻略した町ではすべての人間と犬や鶏まで殺しつくし、投げこまれた数十万の死体で川の流れがとまりました。五つの町ではその後久しく生きて動くものの姿が見られなかったということです。

この徐州での大虐殺は、曹操 = 大悪党、というイメージを増幅させた出来事のひとつです。史料でも次のようにあります。

「十五の県城を陥落させ、数十万の住民を殺した。泗水の流れは無数に浮かぶ死体のために淀み、無人の都市が残された」『後漢書』「陶謙伝」

数十万という数は少々大げさのように思えるが、正史にも「この遠征で曹操軍の通過したところは、どこでも住人の多くが虐殺された」とあるから、非戦闘員を含め多くの領民が殺されたことは、疑いようのない史実でしょう。

ちなみに、この際に民のため、徐州の陶謙に味方した劉備は、停戦の使者を送ることを決意しています。この段階での劉備の行動からも分かるように、非常にシリアスな状況ではあるものの、周囲の人々の間に「曹操が常軌を逸している」などという認識は無かったことがわかります。

なぜ陶謙は曹嵩を殺したのか?

前述のように、これは克州の牧となっていた曹操が、徐州の牧・陶謙に父の曹嵩を殺されたことで起こりました。

曹操はその生涯においていくたびも戦争をしたが、最もすさまじいものがこの、曹操三十九歳、兌州牧であった時、徐州牧の陶謙を攻めた戦いでした。

曹操の父・曹嵩はかねてより郷里に引退していましたが、董卓の乱以後、末子の徳とともに難を避けていた。この父と弟が陶謙の部下に殺されたのです。

殺害された時期について正史『三国志』は「董卓の乱が起こった頃」とし、『三国志演義』は青州兵が曹操軍団に編入された後に設定しています。

そして正史『三国志』の裴松之注は、曹嵩の最期について2つの説を採録しています。

『世語』の記す説は次の通り。曹操が父親を迎えるべく使いを送ったところ、陶謙が先手を打って曹嵩を捕えるべく軍隊を送りました。曹嵩は逃げようするも殺された。

『呉書』の説として次の話を載せています。陶謙の任命した護衛隊長が曹嵩を殺害し、莫大な量の積荷を奪って呉の地へと逃げた。曹操は陶謙に責任を負わせて討伐へと乗り出した。

どちらが真実かはわかりようもありませんが、陶謙の支配下で起こった事件であったことは確かなようです。

名士からの反発=破滅の危機

さて、大虐殺の後、曹操は、この虐殺を批判した浸州の名士の長老・辺譲を殺害します。

「名士」とは各地域で声望の誉れ高き知識人階級を指します。彼ら名士で群雄に召し抱えられたものは、軍務にあっては参謀として、政務にあっては高級文官として立ち働きました。

この名士の協力なしに割拠することは不可能であったから、群雄はみな礼を尽くして陣営内に招きました。半面、名士に見限られるのは破滅の危機を意味してもいました。

辺譲を殺したあと、曹操の身の上にこの破滅の危機が訪れました。有力参謀として頼りとしていた陳宮が曹操を見限り、2度目の徐州遠征に赴いた間隙を衝いて、曹操の旧友・張邈とともに兗州で叛旗を翻したのです。しかも、董卓殺害後、各地を放浪していた猛将・呂布を抱き込んでいました。

1年の攻防の末に兗州を回復することはできたが、完全に立ち直るためには、徐州大虐殺と辺譲殺害で失った名士たちの信頼を取り戻すことが急務になったのです。

参考:『史実 三国志』宝島社、『三国志 きらめく群像』筑摩書房

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