【三国志の真実】曹操が呂布・袁紹に連勝し〈中原の覇者〉となれた理由 知られざる復活劇!許都誕生の秘密!




三国志

曹操は、張邈・陳宮・呂布との1年の攻防の末に兗州を回復することはできたが、完全に立ち直るためには、徐州大虐殺と辺譲殺害で失った名士たちの信頼を取り戻すことが急務でした。名士たちが官僚として働いてくれないと、勢力を維持できないからです。

さて、このピンチを曹操は毛玠(孝先)の進言を採用することで切り抜けます。毛玠は、戦乱を避けて各地を遍歴し、兗州に居住。同州の牧となった曹操に招かれていました。毛玠の進言は2つありましたが、その一つが天子を奉戴することでした。

権威の復活!天子の奉戴

「天子」とは後漢帝国の献帝のことです。

董卓の死後、都の長安から洛陽に戻りましたが、洛陽は董卓によって灰燼に帰しており、宮廷など跡形もありませんでした。加えて貯えもなく、日々の食事にも苦労する有様でした。しかし、天子という「権威」は健在だったのです。

天子の奉戴に関しては、この頃の筆頭参謀ともいうべき荀彧も勧めています。正史『三国志』「毛玠伝」には、曹操が「敬意をもってその進言を受け入れた」とあります。

名士の信頼を取り戻すには、献帝を奉戴して、帝国の復興を大義名分に掲げるのが最善策だったためです。

建安元年(196)、曹操は瀬川郡の郡都となる許、現在の河南省許昌に献帝を迎えました。後漢時代最後の都となる許都の誕生でした。

経済の復活!屯田制

献帝を奉戴した曹操は、毛玠の2つ目の進言となる食料の増産に着手しました。具体的には屯田制の採用です。

この頃の屯田制は、辺境の軍隊が行う「軍屯」しかなく、内陸部での軍事行動に伴う食料確保は、収奪が普通でした。そのため、農村共同体は到るところで疲弊して崩壊に追い込まれ、生産者人口は激減していました。

食料なくして長期の軍事行動など不可能です。長い戦を戦い抜くには、自前での食料生産が不可欠だったのです。

曹操は「民屯」を採用し、支配地域中の荒れ果てた農耕地に開拓者を入植させました。牛や農具を貸し与えました。その代価として、収穫物のうちの5割を軍事用に供出させ、残りを手元に置くことを許しました。

この民屯に青州兵の家族が投入され、民屯地の守備拠点に青州兵たちが配されました。この施策により曹操の底力は急速に増加し、覇道を邁進する原動力となるのです。

参考:『史実 三国志』宝島社

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