【検証】張飛は本当にたった一人で曹操軍30万に立ちはだかったのか? 【三国志の真実?ウソ?】




三国志

劉備軍は惨敗し、妻子を捨て、諸葛亮、張飛、趙雲などわずか数十人をあますのみとなって、かろうじて逃れました。

この時捨てた妻子のうち、甘夫人とその子(のちの蜀の二代目皇帝劉禅、この時二歳)は趙雲が助けました。(むすめ二人が曹操の従弟曹純にとらえられたことは「曹仁伝」にあります)

趙雲を追う曹操軍を阻止するため、張飛はひとり、長坂橋に立ち塞がります。義弟の張飛は自分より強い、と言った関羽の言葉を思い出す曹操。猛将・夏侯淵の子の覇を一撃で退け、曹操を慌てさせます。

ほぼ史実すなわち本当の話!

結論から申し上げると、張飛が大喝して曹操軍を立ち止まらせたエピソードは事実であるようです。

長坂橋の戦いでもうひとつの見せ場となったのが、殿軍を務めた張飛の威嚇です。劉備が妻子を捨てて逃げるなか、張飛はわずか20騎を率いて長坂橋に向かい、橋を落として数千の曹操軍の前に立ちはだかりました。

そして、目をいからせながら矛を構え、「我こそは張益徳である。かかってこい。死を賭けて戦おうぞ!」と大喝しました。

曹操軍は誰も張飛に近づくことができず、劉備軍は死地を脱して夏口に逃れることができました。

この英雄譚は正史でも紹介されているので、張飛の長坂坡での奮戦は史実といえます。ただし、例えば横山光輝のマンガにあるような、単騎での上に立ちふさがった描写はありません。

脚色すなわち嘘も…

張飛の長坂橋の一喝について「張飛伝」にはこうあります。

〈曹公は荊州に入り、先主は江南に奔った。曹公はこれを追い、一日一夜にして当陽の長阪で追いついた。先主は曹公が卒に至ったと聞き、妻子を棄てて走り、飛に二十騎をひきいて後を拒がせた。飛は水に拠り橋を断ち、目を瞑らせ矛を横たえて言った。「われは張益徳なり。来りて共に死を決せよ。」敵は皆敢えて近づく者無く、故に免れるを得た。〉

この場面が後世小説や芝居で大いに潤色されました。芝居では張飛が吼えるとその振動で橋が崩れ落ち、川の水が逆流しはじめたということになっています。しかし張飛が一時的にもせよ敵の追尾をふせいだおかげで劉備や諸葛亮の命が助かったのであれば、これは無論特筆にあたいする大手柄です。

また、『演義』の種本のひとつである『全相平話三国志』では、張飛の活躍が少し誇張して描かれています。殿軍を任された張飛は20騎を率いて長坂橋に陣取り、曹操率いる30万の大軍と対峙します。

曹操は「なぜ逃げないのか」と問いますが、張飛は笑って「軍勢など眼中にない。曹操だけ見ているのだ」と言いました。そして、曹操軍に向かって「わしは燕人張翼徳である。わしと命がけの勝負をする者はおらんのか!」と大喝します。その叫び声は雷が鳴り響くほどで、たちまち橋が真っ二つに割れてしまいます。曹操軍は恐怖のあまり半里(2キロ)も後退し、劉備軍を逃すことに成功したのです。

さすがに叫んだだけで橋が真っ二つになることはないと思いますが、張飛の豪快な武人としての姿をうかがい知ることができます。

武人としての真価

『演義』では、こうしたエピソードに代わって、張飛の大喝で曹操軍の武将・夏侯傑が失神し、落馬して敵兵が浮き足立つ描写があります。

戦いにおいて軍を撤退させるときは、殿軍が追撃してくる軍勢をどう食い止めるかが重要です。

兵法では相手を背後から攻めることで大な損害を与えることができるので、追撃する側が圧倒的に有利だからです。しかし、張飛はわずかの騎で曹操の大軍を足止めし、主君の命を救うことに成功しました。そのため、長坂坡における張飛の殿軍は見事だったといえるでしょう。

参考:『史実 三国志』宝島社、『三国志 きらめく群像』筑摩書房

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