若き日の孫堅、まるで少年漫画のヒーロー!曹操と劉備に勝るとも劣らない大傑物なエピソード多数…華雄を斬ったのは関羽ではない!




三国志

呉の建国者・孫権の父こそ長江下流域に生まれた孫堅です。家柄が低い生まれだが、彼は乱世に呼ばれて歴史に登場します。

長江下流の水辺に現れた肝っ玉野郎

孫堅は呉郡富春の人です。戦国時代の兵法家孫武の子孫であろうと本伝は記していますが、孫武が呉王闊間に仕えたのは孫堅の時代から六百年以上も昔のことです。

歴史の舞台への登場は少年マンガの連載スタートのようでした。

孫堅が17(172)の時、父に従って銭唐に出かけた際、たまたま海賊が略奪品を分配しているところに出会いました。

孫堅は父の制止も聞かず、単身で岸辺に上がると、刀を抜いて左右へ合図を送るフリをします。賊たちは官兵が来ていると思い込み財貨を置いて逃げ出し、孫堅はこれを追って、斬った首をひとつ持ち帰ったいいます。

マンガのヒーローにはありそうな話なのだが、普通はできないこと。彼の異様な肝っ玉と武力が伝わってくる逸話です。

これによって孫堅は名を知られ、仮ではあるが尉(軍事・警察を司る役)に任じられました。それにしても、孫堅の人生だけでなく、呉という国のカラーにも、水運というものが大きく関わっていますね。

脅迫して結婚?

孫堅の家は貴族でもなんでもない庶民の家だったようで、兵法で有名な孫子の末裔としているが、これでは孫という姓のキャッチフレーズでしかありません。

このため、のちに孫策や孫権の母となる娘(呉夫人)に求婚しても、娘の父に渋られました。だが、娘の方は「もし、肝っ玉孫堅に恨まれたら大変だ」と家を守るために孫堅に嫁いだのです。

脅迫して結婚したようにもとれる話で、どうやら孫堅という人物は、低い家柄に生まれて、武力をちらつかせ、肝っ玉で生きていく種類のアウトローだったと考えられます。

乱世が孫堅を呼ぶ!

平和な世であれば、「水辺のゴロツキ」で終わっていたかもしれませんが、時代は後漢末の混乱期。

会稽の妖賊(宗教的叛乱者)である許昌が挙兵し、何万という勢力となると、孫堅は郡の司馬として、武勇自慢の若者千余人を召募し、官兵と協力して賊を打ち破りました。孫堅は功によって県令の補佐役となりました。

184年、黄巾の乱が起きると、旅回りの商人や淮水・泗水あたりの兵士を募って千余人を集め、自分を慕って下邳についてきた同郷の若者らとともに鎮圧に躍動します。

身分の高さに恵まれなかった孫堅ですが、強烈なバイタリティで天下に登場していくのです。

孫呉の起源

つまり孫氏は孫堅の器量によって勃興した地方ボスといってよいのです。

前述の少年時代の逸話からも知られるように、孫堅は果断な性格でした。これはその後も遺憾なく発揮されました。

185年、邊章・韓逐が叛乱を起こし、董卓が鎮圧に失敗、車騎将軍張溫が更めて討伐に乗り出しました。張溫は上表して孫堅を参軍事としました。張溫に呼び寄せられた敗将董卓が不遜な態度を示したため、孫堅は軍法に従って斬るべきだと進言しました。張温は董卓が辺境で威名を顕しているのを考慮して、その進言を用いませんでしたが、これによってさらに孫堅の名が知られるようになりました。

あの時、董卓を斬っていれば…

四年後、董卓の暴虐が始まると、孫堅は「あの時、張公が私の言葉を用いていれば、朝廷はこんな災難に遭わずに済んだものを」と嘆いたといいます。

187年、長沙の區星(おうせい)が叛乱し、一万の兵を集めて町々を攻撃すると、孫堅は自ら兵を率いて區星を斬りました。さらに區星に呼応した零陵郡と桂陽郡の賊を討伐してこれを鎮定、三郡を平穏に戻しました。中央政府はこれまでの功績を認めて烏程侯に封じました。

入洛した董卓が暴逆な行為を繰り返し、ついには「廃立」を強行して少帝劉辯を廃し、その弟劉協(後の献帝)を立てました(189)。翌190年一月、関東(函谷関以東)の諸侯は袁紹・曹操の呼びかけに応じてそれぞれ数万の兵を率いて一斉に挙兵、諸侯たちは渤海太守那郷侯・袁紹を盟主として、洛陽を北・東・南の三方から包囲する態勢をとりました。

しかし董卓軍を恐れる諸侯の足並は揃わず、本気で戦おうとしません。むしろこの混乱に乗じて自立を図る者の方が多く、義軍の結束は半年そこそこで綻びてしまいました。

懸命に戦ったのは榮陽で大敗した曹操くらいだったのです。孫堅が魯陽まで進んで袁術と合流したのは、義軍解散後のことでした。

関羽ではなく孫堅が史実!

孫堅は途中、日頃から彼を軽侮していた荊州刺史王叡を謀殺、また、南陽太守・張咨(ちょうし)を「義軍に非協力的だ」という理由で殺害しました。孫堅の参加が一足遅れたのはこのためでした。

張咨が殺されたので袁術は南陽郡を拠点にすることが出来、喜んだ彼は孫堅を破虜将軍・領豫州刺史としました。

孫堅はこれ以後、袁術に属して活躍を開始し、まず陽人において董卓配下の猛将・華雄を斬りました(『演義』第二回では、これを関羽の初手柄に変えています)。

この時、ある者が競言して彼と袁術の間を割いたため、袁術は孫堅を疑って軍糧を送りませんでした。孫堅は陽人から魯陽に取って返し、「わが身を顧みずに戦う所以は、上は国家のために賊を討ち、下は将軍の家門の仇(袁氏は太傅・袁随を始め、一族の多くが董卓に殺害された)を報じてさし上げるためであって、堅と董卓との間に骨肉の怨みがある訳ではありません。それなのに将軍は陰口を信じ、かえって堅をお疑いなさるか」と訴えました。袁術は返す言葉もなく、急いで軍糧を手配しました。

孫堅は領豫州刺史になっても州の経営は二の次にし、ひたすら董卓討伐に専念したため、軍糧など経済的支援は袁術に頼らざるを得なかったのです。

参考:『三國志群雄録 増補改訂版』徳間文庫、『新説!三國志』えい出版社

タイトルとURLをコピーしました