若き日の曹操 性格は?乱世の奸雄って言ったのは誰?悪友・袁紹との関係は?ファッションは?【三国志の真実】




三国志

橋玄の高評価

三国志最大の人物といえるのが、魏の実質的建国者である曹操。豪族の子である彼のキャリアは、首都洛陽の官界でスタートしました。

曹操が官途に就くのは174年、二十歳の時である。『魏書』武帝紀の本文は、それまでの事績に関してはきわめて簡潔で、「太祖(曹操)は若いころから機敏で権謀に富み、男伊達気取りで品行が整わず、世間の人は彼を評価しなかった」と記すだけです。

ですが、梁国の橋玄らは曹操の人物を深く認めていました。才略があり、人物の鑑識に秀でていた橋玄は「天下はまさに乱れようとしている。一世を風靡する才能がなければ救えないであろう。よく天下を安んじ得るのは君であろうか」と高く評価しています。

橋玄のこの言葉は、王沈の『魏書』では、「私は天下の名士を数多く見てきたが、いまだ君に勝る者を知らない。大いに自重してもらいたい。私はすでに老いてしまった。願わくば君に私の妻子を託したいものだ」となっています。

曹操と橋玄にまつわる逸話は、さらに『世説新語』にも記されています。橋玄が「天下はまさに乱れようとして、群雄が虎のように争っている。これを治めて統一するのは君ではないだろうか。とすれば、君はまことに乱世の英雄にして治世の奸賊だ」と言ったと記しています。

脅して人物評論

また、武帝紀に引く『世語』に曹操の名が知られていないことを惜しんで、汝南の名士・許劭(許子将)に会うことを勧めました。

後漢の末期は人物評論が盛んに行われた時代であり、名士の知遇を得ることは世に出るために欠かせない条件となっていたからです。

許劭は、その従兄・許靖とともに人物評論によって名を知られ、毎月初め(月日)に会合を開き、名士を格付していました。人物批評を意味する「月旦評」は、これに由来します。

『後漢書』許劭伝によると、曹操は彼を卑しんで黙りこくる許劭を脅して批評を請うたところ、許劭は已むを得ず答えました。「君は清平の世の姦賊、乱世の英雄ならん」

この逸話で面白いのは、己を無視した許劭を脅したことです。曹操の目には、名士とは、したり顔をして他人をあげつらう人間にしか見えなかったのでしょう。

武帝紀に引く孫盛の『異同雑語』では、許劭の答えは「子は治世の能臣、乱世の奸雄ならん」と記され、曹操への批評としては、この言葉の方がむしろ有名です。曹操はこれを聞いて大いに笑いました。ひそかに期していたことが図星だったからでしょうか。

嘘つき少年

曹操は幼い時「嘘つき小僧」だったということです。こんな話があります。

曹操は鷹を飛ばし、犬を走らせ、狩に明け暮れる日々を送っていました。叔父はこれを

見て曹操の父に告げました。曹操は煩わしく思い、ある日叔父に会った際、顔を引きつらせ、口を歪めました。叔父がどうしたかと問うと曹操は「麻痺症に罹った」といいます。驚いた叔父は父親に告げました。

父親が曹操を呼んだところ、何も変わったところがありません。「麻痺症は治ったのか」と問う父に曹操は「初めから麻痺症になんて罹っておりません。叔父に可愛がられていないので、そんなことを言われたのです」と答えました。以後、父・曹嵩は叔父が告口しても信用せず、そのため曹操はしたい放題にふるまえたということです。

また、以下の逸話もまた、いかにも曹操らしい機知と詐術に富むものです。

曹操は人々に「自分が寝ている時、みだりに近付かぬようにせよ。私は眠っていても、知らぬ間にその人を斬っている。側近はよく注意してくれ」と語りました。

その数日後、曹操が狸寝入りをしていると、寵愛している者が、そっと夜着を着せかけました。曹操はやにわにその者を斬り殺しました。以後、彼が眠っている時には誰も近付かぬようになりました。

これは暗殺を恐れた曹操の芝居であり、詐術に富んだ彼らしさを彷彿させる話です。

間抜けな悪友・袁紹

袁紹とともに花嫁を盗み出そうとした話もあります。曹操は若いころ、いつも袁紹と組んで無頼の遊びをしていました。

ある時、婚礼を, 挙げている家に忍び込みました。そして夜になって「泥棒だ!」と大声で叫びました。花嫁の控え室にいた人々が様子を見に出た隙に、曹操は刀を抜いて新婦を脅かし、外に連れ出して袁紹と一緒に逃げました。

途中、道に迷って棘の中に落ち込み、袁紹は身動き出来なくなりました。曹操は「泥棒はここにいるぞ」と大声で叫びました。切羽詰まった袁紹は必死になって飛び出し、二人とも助かりました。

咄嗟に機転を働かせる曹操と、ドジな袁紹のもたつきぶりが好対照で、この話が真実か否かは別として、二人の歩んだ人生をそのまま描き出しているようです。

武勇伝

王沈の『魏書』によると、才能も腕力も人より優れ、自ら飛鳥を射落とし、猛獣を捕えたといいます。南皮で、一日に六十三羽の雉を射止めたこともあったと記され、彼が武勇にも優れていたことがわかります。

ファッション

今まで見てきた油断ならない人物、曹操はどんな風貌をしていたのでしょうか。

『曹瞞伝』は悪意を籠めて次のように書いています。

曹操の為人(人となり)は軽はずみで威厳がなく、音楽を好み、藝人を左右に侍らせ、常に日中から夜に至るまで楽しんだ。衣服は軽い絹を用い、小さな皮袋をつけて手巾や細かい物を入れていた。時には恰帽(簡略な被り物)をかぶって賓客と会う。人と談論する時はいつも冗談を言い、思っていることを隠さずに話した。喜んで大笑いした時は頭を杯や碗の中に突っ込み、頭巾を膳の肴で汚してしまった。

悪くとれば曹操の軽率さが、良くとれば物事に拘らない、彼の闊達な気性が伝わってきます。

以上、「若き日の曹操 性格は?乱世の奸雄って言ったのは誰?【三国志の真実】」でした。

参考:『新説!三國志』えい出版社、『三國志群雄録増補改訂版』徳間文庫

タイトルとURLをコピーしました