明智光秀の軍団〈武将一覧〉どんな家臣が?構成は?織田信長を本能寺の変で討った武将たち!




明智光秀

丹波(現在の京都府・兵庫県の一部)を制圧した明智光秀は、織田信長 (一五三四~八二)の家臣団のなかでトップクラスの実力者となりました。

その軍事力を支えていたのは、光秀と同じく美濃 (岐阜県南部) 出身の明智秀満(一五三六?~八二)や斎藤利三(一五三四~八二)をはじめ、領地があった近江(滋賀県)や丹波から登用した家臣たち、そして室町幕府に仕えていた武士たちでした。

光秀家臣団の中核となったのは美濃出身の者たちで、その後、室町幕府に仕えた旧臣、および光秀が支配した山城、近江、丹波の国衆などを配下に加え、家臣団を拡大・形成したと考えられるでしょう。

光秀の「家中」(当主と一門・家臣の集団)には、さまざまな出自をもつ人びとが集まっていたのです。

明智光秀家臣団の構成

一族衆

明智秀満・明智次右衛門(光忠)・妻木一族など

譜代衆

斎藤利三・溝尾庄兵衛・三宅藤兵衛・藤田伝五・池田織部・進士作左衛門(貞連)・奥田宮内など

西近江衆

猪飼野昇負・磯谷久次・和田秀純・林員清・山岡景佐・馬場孫次郎・居初又次郎など

山城衆

佐竹出羽守・渡辺宮内少輔・山本対馬守など

丹波衆

荒木山城守(氏綱)・四王天但馬守・松田太郎左衛門・並河掃部・荻野彦兵衛・野之口彦介・中沢又五郎・小島一族など

旧幕府衆

伊勢貞興・御牧三左衛門尉・諏訪飛騨守など

明智秀満

明智左馬助は、三宅弥平次秀満のことです。諸書に光春と記すものもあるが、それは誤りと指摘されています。

秀満の出自は諸説が唱えられ、なかには美濃で誕生した塗師の子というものもあり(『綿考輯録』)、美濃との関連性をうかがわせます。

秀満が光秀から明智姓を与えられたのは、主従間の紐帯を強めるためです。

光秀の先陣として本能寺を攻めたが、のち安土で敗れ、坂本城に逃れて自害。

斎藤利三

斎藤内蔵助利三は天文3(1534)に利賢の子として誕生し、もともとは斎藤氏配下の「西美濃三人衆」のひとり・稲葉一鉄(良通)に仕えていました。

しかし、利三は一鉄との関係が悪化したため、のちに光秀に仕官するようになりました。その時期は元亀元年(1570)が有力視されています(天正10年説もある)

利三は、本能寺の変で抜群の活躍をしました。本能寺の変にも光秀に従い、山崎の敗戦後、近江堅田で捕われ、京六条河原で斬首されました。

旧幕臣たち

幕臣と思しき人々が光秀の配下に加わっていることにはふれておきましょう。義昭追放に幕臣を吸収、光秀家臣団が形成されたというかたです。おおむね天正元年(1573)の室町幕府の滅亡を機にして、光秀に仕官したようです。

義昭が京都から没落した後、室町幕府に仕えた武士(奉公衆)たちは所領支配の関係から多くが京都に留まり、なかには光秀の下に配属されたのです。

代表格としては、幕府の政所執事(財政と領地に関する訴訟を扱う役所の長官)を代々務めた伊勢貞興(一五六二~八二)や、御牧景重などが挙げられます。

伊勢貞興は、幕臣で、政所執事・貞良の子。幼名は熊千代。通称は与三郎。伊勢守。

光秀の娘のひとりは、伊勢貞興の妻になっていたという(『伊勢氏系図』)。伊勢氏は室町幕府の政所執事の家系で、貞興は兄の貞為とともに室町幕府に仕えていました。足利義昭の御供衆でしたが、義昭追放後は明智光秀の家臣とな山崎の戦いで殿を務め戦死しました。

御牧景重(?~一五八二)は、幕府奉公衆。益景の子。通称・三左衛門。別名・御牧兼重。光秀の家臣となり、山崎の戦いで討死しました。

石谷光政(生没年不詳)は、幕府奉公衆。出家して空然と号しました。斎藤利賢の長男・頼辰を養嗣子として長女を娶らせ、二女を長宗我部元親に嫁がせました。

斎藤利三の兄・石谷頼辰 (?~一五八七)は、幕臣の石谷光政の養子となっており、石谷光政の娘が長宗我部元親(一五三九~九九)の正室だった縁から、光秀は信長と元親の間で取次(外交の担当者)を務めています。山崎の戦いの後は土佐に逃れ、元親に仕えました。

この他にも、光秀は義昭に仕えた山城・近江の武士たちを家臣や与力(政治・軍事面で光秀の指揮を受ける存在)とし、みずからの軍事力を強化していきました。

参考:「歴史旅人vol.5」晋遊舎ムック、「歷史REAL 明智光秀」洋泉社MOOK

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