【ウソ?ホント?明智光秀】光秀の性格・人となりとは?@宣教師フロイス著『日本史』「家中の嫌われ者?」「太鼓持ちあるいは提灯持ち?」




明智光秀

同時代の史料として光秀の人物像をもっとも詳しく記しているのは、ポルトガルの宣教師のルイス・フロイスです。当時、フロイスは布教のために日本に滞在中で、光秀と面識がありました。

謀略の人

フロイスは光秀の性格について、「裏切りや密会を好み、刑を処するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった」と率直に語っています。

フロイスによれば、光秀は、裏切り、密会、残酷さ、独裁を好むというものでした。この性格は戦争という場面でも発揮され、謀略によって勝利を得たようです。そういう意味で光秀は戦巧者だったようです。

築城名人

また「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた熟練の士を使いこなしていた」とも記述しています。

信長との関係

また、光秀は信長から重用されたので、その寵愛を受け続けるために必死だったのです。そのためには、自身の本当の性格をひた隠しにしていたのです。

『日本史』は、続けて「彼は誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛の情を得るためには、彼を喜ばせることは万時につけて調べているほどで」と記しています。

家中の嫌われ者

光秀と他の織田家臣たちとの関係性については「殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかった」と記述されています。

また、「友人たちの間にあっては、彼は人を欺くために七十二の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していた」とあり、いずれも光秀の抜け目ない性格を指摘しています。

『日本史』におけるフロイスの光秀の人物評をみると、フロイス自身は光秀に対して好意的なイメージは持っていなかったようです。したがって必ずしも真実の姿とは言えず、客観的とは言えないという意見もあります。

そもそもフロイスの記述は光秀死後に書かれたもので、その当時は秀吉の天下、光秀は天下の謀反人でした。

しかし、私たち後世の人間に、生き生きとした光秀の人物像、その一端を伝えてくれる史料ではあると思います。

参考:「歷史REAL 明智光秀」洋泉社MOOK、「明智光秀50の謎」マイウェイムック、「もっと知りたい明智光秀と本能寺の変」TJMook宝島社

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