NHK大河ドラマ『麒麟がくる』でまた戦国時代に注目が集まっています。そこで、明智光秀と同時代を生きた最強の武将・本多忠勝について詳しくまとめておこうと思います。
弱冠19歳の親衛隊長
本多忠勝も、酒井忠次と同様に徳川家創業以来の重臣であり、三河一向一揆で大活躍しました。
家康直轄の部隊
永禄9年、家康は忠勝に直臣55騎を与力として与え、旗本先手の軍団を創設しました。
忠勝は、弱冠19歳で侍大将となったのです。それは、単なる馬廻衆ではなく、家康直轄の独立した軍団でした。
花実兼備の勇士
忠勝は幾多の戦いで軍功を挙げ、天正10年3月の武田氏討伐戦では、織田信長から「花実兼備の勇士」と称えられました。
「生涯57回」で傷一つなし
生涯57回に及ぶ合戦で傷ひとつ負わなかったという猛将ぶりは、あまりにも有名です。
天正5年の小田原北条氏の滅亡後、家康が関東に入部すると、忠勝は上総大多喜に10万石を与えられました。
なぜ戦国最強なのか?
平均的な身長
実際の身長は残された甲冑から、160センチ前後だったと想定されています。
戦国武将の体格については、例えば、遺骨が調査された伊達政宗は159センチ、石田三成は156センチと判明しています。
忠勝は、当時の日本人の平均身長前後であり、巨漢から繰り出されるパワーによって、敵を打ち倒すタイプでなかったことがわかります。
蜻蛉切!
忠勝は、空中を舞う蜻蛉を槍で切り落とすことができたため、「蜻蛉切の平八郎」と異称されました。そして愛用の槍は「蜻蛉切」と名付けられました。
一匹の蜻蛉に狙いを定め、切り落とすには、槍先を完全に制御しつつ、風よりも早い速度で突く必要があります。忠勝は、蜻蛉を切り落とすように、顔面や首、そして脇の下などの急所を槍で一撃することにより、敵を仕留めました。
巨漢タイプとのちがい
それに対して身長190センチとも伝えられる藤堂高虎のような巨漢タイプの猛将は、敵に接近したうえで、槍を振り降ろすことで相手を薙ぎ倒し、馬乗りになって止めを刺しました。
いわば、肉を切らして骨を断つような戦い方だったため、生傷が絶えなかったことでしょう。
なぜ傷を負わないのか?
6メートルの槍
忠勝は、通常は4・5メートル前後のところ、約6メートルの槍を好みました。
そのため、敵の有効打撃圏の外から、急所を槍で一撃でき、手傷を負うことがありませんでした。
vs 真柄直隆(身長2m)
姉川合戦において、忠勝は、朝倉勢一の武勇を誇る真柄直隆を討ち取ったと伝えられます。
真柄は、身長2メートルを越す巨漢タイプの猛将の典型例であり、槍ではなく、約175センチの巨大な太刀の使い手でした。
接近戦になり、太刀を降り下ろされれば、槍で受け止めても、切断され、鬼越しに受ける衝撃で脳震盪を起こし、馬乗りにされた状態で首をもぎ取られました。
忠勝は、騎馬と一心同体となりながら、真柄との間合いを計りつつ、真柄の急所を一撃したと想定されています。
馬を巧みに操ることにより、優位な位置取りを保つという意味でも、忠勝は、巨漢タイプより、勝利の確率を高めたのです。
武具の軽量化
本多忠勝兜図によれば、忠勝は、頭部には忠勝の代名詞ともいえる、鹿の角をあしらった「鹿角脇立兜」、槍は「蜻蛉切」、具足は「黒糸威胴丸具足」、いずれも名だたる武具を備えていました。
忠勝は動きの素早さを追求するため、軽量の鎧を好みました。忠勝にとって、極限にまで鍛え上げられた筋肉は、鎧の一部だったのかもしれません。
一騎討ち負け無し!
戦場で一騎討ちになれば、「蜻蛉切の平八郎」にかなう猛将は、皆無に等しく、電光石火のように繰り出される「蜻蛉切」の餌食になりました。
戦場での一騎討ちだけではなく、主君に忠実に仕えながら、多くの配下に慕われ、歴史に名を残すという観点を加えれば、忠勝の「戦国一の猛将」としての座が揺らぐことはないでしょう。
策士の一面
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、同僚の井伊直政とともに活躍し、家康がいる東軍を勝利に導きました。
この時には、西軍諸大名の寝返り工作も謀るなど策士の一面もありました。
全合戦 25勝4敗5引き分け
○大高城攻防戦 1560 織田信長
○梅坪城攻防戦 1560 織田信長
○丸根砦攻防戦 | 1560 織田信長
●桶狹間合戦1560 織田信長
○広瀨城攻防戦 1560 今川氏真
●上和田合戦1561一向一揆
○吉田城攻防戦 1561 今川氏真
○浜松城攻防戦 1568 今川氏真
○井伊谷城攻防戦 1568 今川氏真
○掛川城攻防戦 1569 今川氏真
△金谷合戦 1569 武田信玄
△金ヶ崎撤退戦 1570 朝倉・浅井連合軍
○姉川合戦 1570 朝倉・浅井連合軍
単騎駆けして、北国一の闘将として名高い真柄直隆と一騎討ち!忠勝の命懸けの奮闘は、全軍の士気を鼓舞し、織田・徳川連合軍を勝利へ導きました。
△天竜川合戦 1572 武田信玄
●一言坂合戦 1572 武田信玄
●三方ヶ原合戦 – | 1572 武田信玄
○犬居城攻防戦 1574 武田勝賴
○長篠合戦 1575 武田勝頼
○二侯城攻防戦 1575 武田勝頼
○諏訪原城攻防戦 1575 武田勝頼
△小山城攻防戦 1575 武田勝頼
○持舟城攻防戦 1578 武田勝頼
○高天神城攻防戦 1581 武田勝頼
○甲州平定戦 1582 武田勝頼
○伊賀退却戦 1582 伊賀国人衆
○長久手合戦 1584 羽柴秀吉
△小牧合戦 1584 羽柴秀吉
創作ではありますが、『武功夜話」では、愛槍・蜻蛉切を振るって豊臣軍きっての猛将加藤清正と一騎討ちする名場面が描写されています。羽柴秀吉は、小牧・長久手合戦で忠勝が奮闘する姿を見聞し、「東国一の勇者」と激賞したといいます。
○玉絹城攻防戦 1590 北条氏康·氏直
○江戸城攻防戦 1590 北条氏康·氏直
○佐倉城攻防戦 1590 北条氏康・氏直
○東金城攻防戦 1590 北条氏康・氏直
○土気城攻防戦 1590 北条氏康·氏直
○岐阜城攻防戦 1600 織田秀信
○関ヶ原合戦 1600 石田三成
負け戦でこそ真骨頂が!
「猛将・忠勝」の真骨頂猛将としての真価は、負け戦でこそ発揮されています。
よく知られているように、家康は、武田信玄との戦いにおいて、滅亡の危機に直面しました。
vs山県昌景・内藤昌豊
元亀3年(1572)10月、武田軍が徳川領の遠江へ侵攻すると、家康は、浜松城から出撃しました。
徳川軍は、武田家屈指の闘将として名高い山県昌景と内藤昌豊が率いる先鋒部隊と、一言坂(静岡県磐田市)周辺で遭遇。家康は、兵力的に圧倒的に不利だったことから、退却を決意して忠勝に殿を命じました。
この一言坂合戦では、忠勝が武田軍を引き付けることにより、家康が率いる本隊を無事に浜松城へと退却させ、殿としての役割を果たしました。
また、優勢な武田軍に包囲されながらも、忠勝が先頭に立ち、配下の将兵と一丸となって包囲を分断することにより、死地から脱することができたのです。
三方ヶ原での世代交代
同じ年の2月の三方ヶ原合戦において、徳川軍が完敗を喫しても、忠勝は孤軍奮闘し、武田軍団のなかでも、最強と称された山県隊に対し、優勢に立つ場面もあったといいます。
忠勝が戦国乱世の表舞台に躍り出るまで、昌景は、「東国一の猛将」として知られていました。
この後、昌景は、長篠合戦で壮絶な最期を遂げますが、その時「東国一の猛将」の座を忠勝に譲り渡したともいえるでしょう。
明智光秀にも〝忠勝〟がいれば…
徳川家康は、天正10年(1582)6月、本能寺の変によって畿内周辺が混乱状態に陥ると、伊賀経由での本国三河への帰国を決断しました。
この伊賀越えにおいて、忠勝は猛将そして忠臣としての本分を発揮し、野武士や野盗の襲撃に立ち向かい、主君家康の逃避行を成功へと導きました。
伊賀国内を通過する時には、落ち武者狩りの集団が家康一行に襲い掛かった。並外れた筋力がありながら、無尽蔵ともいえる持久力を誇る忠勝は、時には肥満気味で動きの遅い家康を背負ったといいます。
そして、敵の襲撃を受ければ、電光石火の槍技で突き倒し、主君家康を危地から救いました。
そこで思い出すのが明智光秀の最期です。山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた後、光秀は逃亡中、落ち武者狩りにあって非業の死を遂げました。もしも光秀麾下に忠勝がいれば…歴史のifですね。
参考:歴史人No.111など