徳川四天王の若き勇将・井伊直政!家康が評価した3つのポイント/なぜ赤備えなのか?/全身傷だらけの理由




明智光秀

NHK大河ドラマ『麒麟がくる』でまた戦国時代に注目が集まっています。そこで、明智光秀と同時代を生きた徳川家の若き勇将・井伊直政について詳しくまとめておこうと思います。

徳川四天王のひとり。家康と天下人へと押し上げた全身傷だらけの勇将です。

大身になってからも合戦では自ら先頭に立って戦ったため、42歳で死去する頃には全身に戦傷が刻まれていたといいます。

苦難の少年時代

井伊直政は、永禄4(1561)、直親の嫡男として誕生しました。幼い頃は早くに父を亡くし、三河国鳳来寺に逃げるなど幼い頃は大いに苦労しました。

天正3(1575)2月、徳川家康が鷹狩りに出掛けたときに、偶然見出されて登用された。その容貌は子供らしからず、すでに武人としてのたくましさを醸し出していたといいます。

家康が直政を召し抱えた3つの理由

遠江出身の元今川家臣

井伊直政は、「徳川四天王」のうち唯一の三河出身者ではなく、元今川家臣の、遠江の出身です。

本多忠勝、榊原康政とともに徳川三傑の1人であり、徳川家中では武功派に属しました。

天正3年、家康は浜松で直政を見出し、小姓として召し抱えたと伝わります。

家康が直政を配下に加えた理由は、井伊氏が由緒ある名族であること、直政が英雄の相を持っていたこと、家康と姻戚関係にあったからだといわれています。

徳川家の出世頭

天正4年春、直政が12歳のときに初陣。甲斐の武田勝頼が遠江国高天神に出陣し、その近くの柴原で合戦がでした。

家康の命を救う

家康が陣小屋で休息していると、夜中に敵の忍びの近藤武助という者が侵入したので、直政が御次之間で討ち取りました。

家康はことのほか上機嫌になり、10倍の加増をして、直政に3000石を与えました。ここから直政のめざましい出世街道がスタートします。急激に加増されていくのです。

忠勤第一

直政の家康に対する忠勤は、ほかの家臣をはるかに凌ぐものがありました。天正6(1578)には、1万石に加増されました。直政の勢いは終わりません。天正8年に、続けて2万石にまで加増されています。

これによって井伊家譜代の家臣、中野越後守、奥山六郎左衛門以下、山中に逃れていたが、すべての家臣が山から下りて、直政に仕えることができました。

精鋭部隊

天正103月に武田氏が滅亡すると、直政は武田氏旧臣から成る「赤備え」を家康から授けられました。

「赤備え」は、もともと武田信玄家中の山県昌景らが率いた騎馬隊で、武田

氏滅亡後、武田遺臣を付属させ赤備えの再編を任されたのが直政でした。

もともとの直政の家臣が少なかったので、武田氏旧臣を加えて軍団を編成したのです。

この精鋭の軍団は、家康の親衛隊長として、幾多の戦いに臨んだのです。

四天王で唯一、三河出身ではない井伊直政は、譜代以上の忠誠心と武勇をもって家康の信頼に応えました。後に12万石を与えられ、高崎藩を立藩しました。

なぜ赤備えなのか?

「赤備え」にした理由にはふれておきましょう。

山県昌景

もともと山県昌景は、武田信玄の家臣ではあるものの、それぞれ自前の領地と家臣(私兵)を持つ小領主です。

武田信玄の父信虎の時代から土地の直轄化、小領のの直臣化をしましたが、信玄の代になっても完全に掌握したとはいえませんでした。

山県昌景には、小領主としての、地域自治(あるいは地域主権者)の色彩を残しているのです。

したがって小領主の立場ゆえに、自家軍団に特色をもたせ、馬術・兵法・弓・鉄砲の調練を怠りませんでした。

そして全員の武具を赤一色に染め「赤備え」の勇名をはせたのです。

井伊の赤鬼

武田家滅亡後、赤備えは家康の命で井伊直政にひきつがれ、「井伊の赤備え」「井伊の赤鬼」として当時、そして現在まで名を高めたのです。

戦場では自ら先頭に立つ!

直政自らが長槍を振るい、先頭に立って戦いました。こんな逸話があります。

天正2年の小牧・長久手の戦いで、家康と秀吉が激突すると、直政は「赤備え」を率いて獅子奮迅の働きをしました。

直政は、このとき黒母衣をかけた敵と組んだ。味方の安藤直次が横から助けようとしたが、すでに敵を組み伏せ終わっていました。しかし直次は直政に「今一軍の将たる者、自ら手を下すべきものではない」と声をかけて先に進みました。直政はこれを聞いて、速やかに帰って軍勢を整えたそうです。

この話は、直政は自らの地位を忘れ、先頭に立って戦っていたことを伝えています。

直政の気性は激しく、家臣のわずかなミスも許容せず、すぐさま手打ちにした。それゆえ「人斬り兵部」と畏怖されました。

参考:歴史人No.111など

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