詩聖・曹植、周瑜の曹操への激怒は創作/曹丕への七言詩は偽作【三国志の真実/演義の創作】




三国志

周瑜の怒りは創作

『三国志演義」では、諸葛亮が曹植作の「銅雀台賦(どうじゃくだいのふ)」を周瑜に教えた時、

(曹操が)大喬小喬(孫策と周琉の妻)を手に入れ朝タ楽しみを共にしよう」という文句を聞いて周瑜が激怒する場面があります。

曹植作の「銅雀台賦」(登台賦)は確かに存在するが、この文句は原作にない、『演義』創作です。

曹丕への七歩の詩は偽作

また、曹植が兄の曹丕に「七歩歩くうちに詩を作らねば処罰する」と言われ「同じ根から生まれた豆()と豆殻()なのに、なぜいがみ合わねばならないのか」という意の詩(七言詩/七歩の詩)を作りました。

話は南朝宋代の『世説新語(せせつしんご)』にあり、『演義」でも取り入れられています。こちらも偽作との見方が大勢です。

“詩聖”の意外な一面

近年の調査で三国志の多くの人物の印象が変わりました。曹植もその一人です。

曹植は曹操の五男で、三男で後に魏を建国し初代皇帝になる曹丕と後継者争いをし敗れました。兄曹丕、父曹操なに勝るとも劣らぬ一級の詩人でした。

曹植は、死後、曹不の子・曹叡によって東阿王に封ぜられました。

彼の墓は、遺言により生前よく登ったという魚山に築かれました。

近年、魚山で発掘調査が行われました。その際、曹植の墓を修墓したという記録が刻まれた碑(レンガ)や大量の副葬品、遺骨が出土したことなどから、ここが曹植墓である可能性が高いと見られています。

山東省の曹植墓からは「薬廿(ニ十)」と刻印された壷が出てきました。

これは死後の世界でも長寿を願う、という神仙思想の現れです。彼にはそうした一面もあったことをうかがわせます。

また、曹植墓からは曹操高陵から出土したものと同じ石材で作られた品も発見されました。いろいろな関係がささやかれる親子ですが、二人の絆を示すものでしょう。

参考:TJ MOOK『史実 三国志』など

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