【三国志 正史と演義の比較】尹賞(いんしょう)、魏将だったが姜維とともに蜀に投降【史実との違い】




三国志

演義の尹賞

天水郡の主簿。魏に仕えていましたが、諸葛亮の北伐を受けると城を明け渡し降伏。

そもそも諸葛亮の放った偽の使者、裴緒に騙され、夏侯楙(かこうぼう)の救援を進言したりしています。

仲の良かった姜維が蜀に降った際には、 自分が殺されるのを恐れ、城内にいた梁
緒とともに城門を開き、蜀軍を招き入れました。

この事情を詳しく説明すると、次のようになります。

まず姜維は城内を混乱させるための策を諸葛亮に献上、それは天水城に矢文を打ち込み、 尹賞と梁緒が自分と通じているかのような疑心を大守に抱かせるという作戦でした。

矢文により、 尹賞は天水城の大守から疑われたことを知ります。そこで身の危険を感じた尹賞はともに疑われた梁緒と一緒に蜀軍に内応、蜀の兵たちを天水城に迎え入れたというわけです。

後に冀城の県令に任ぜられました。

正史の尹賞

『蜀書』の姜維伝に名が見られます。

諸葛亮の祁山(きざん)攻めの際、天水郡の太守から、姜維ともども尹賞らが濁軍に寝返るのではと疑われます。

また執金吾まで昇進し、蜀の滅亡前に死んだことも記されています。

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