道士。東方に住み、呉郡や会稽一帯を行き来しては、護符や聖水で人の治療にあたっていました。そのため信者も多かったようです。
演義の于吉
許貢の食客に襲われ、傷を負った孫策。その彼のもとへ、袁紹から「力を合わせ、ともに曹操を討とう」という使者が来ました。
喜んだ孫策は、使者の陳震をもてなす酒宴を開きました。しかし、その宴会の途中、参加者が次々と席を立って消えてゆきます。
その理由が、通りかかった干吉を拝みに行くためと知った孫策は、激怒して手吉を逮捕。
「手前は神書を手に入れましてから、あまねく万人の苦しみを救っております」
母親の呉夫人の制止も聞かず、君臣の礼を乱させた罪で斬首しました。
その後、孫策には干吉の幻が見えるようになり、最期は、鏡の中の手吉に驚き、 全身の傷口が裂けて死亡しました。
正史の于吉
孫策が許都を攻めるとき、 干吉を従軍させました。旱魃(かんばつ)で行軍は難行。
そんな中、将兵たちが、干吉ばかりを頼るのが面白くない孫策は、「雨を降らせてみろ」と命じます。
雨は降りました。しかし孫策は子吉を殺害。その夜、怪しい雲が覆い、遺体は消えました。
黄巾軍の実質的な始祖
実は干吉は張角兄弟がその信徒であったということです。事実上、太平道(黄巾軍)の始祖です。
順帝の時の人だというから黄巾の乱が起る(184年)よりも50年以上も前の人です。
だから張角兄弟がその信徒だとしても直弟子ではありません。孫弟子くらいのところでしょうか。
張角の授かった天書三巻(太平要術)は南華老仙に仮托されていますが、手吉の教えを記した彼自身の著書であったかも知れません。
孫策の劇的な死に利用された于吉
演義では、それを小覇王・孫策に憎まれ殺され、その怨み、たたりで孫策を呪い殺す人物に変えました。
孫策は呉郡太守許貢を曹操に通じた罪によって殺したが、許貢の食客だった男三人に襲われ、重傷を負いました。
孫策はその傷がもとで、孫権に位を譲って死にます。
演義の作者・羅貫中は、それだけでは劇的趣向が足りないと思ったのでしょう、そこへに「于吉」という人物をはめこんで、死因としたのです。
干吉は雨を降らせることの出来る法術家として描かれているが、摩下の諸将まで拝みにゆく、張昭さえ千吉をかばう、母の呉太夫人まで帰依者だという、一種の新興宗教の教祖のようです。
そうであっても治政者である孫策からは「人心を惑わす妖仙」です。千吉を異常に憎みだすあたりから、英雄児・孫策は次第に物狂おしくなって来ます。そしてついに手吉を殺し、その霊に呪われて死ぬのです。