【三国志 正史と演義の比較】魏の先鋒と言えば于禁(うきん)!だが屈辱で憤死した魏の五虎将軍の一人【史実との違い】




三国志

字は文則。泰山郡距平県の人。

演義の于禁

曹操のもとに身を寄せ、弓馬に秀でているのを認められると、やがて典軍司馬となり、先鋒になくてはならない人材として活躍しました。

張繍の奇襲に遭って曹操軍が敗走するなか、略奪をする青州兵を掃討。

このため「謀反した」と議言されるが「弁明より、まず敵軍を追い払うのが先だ」と、陣を布いて張繍軍を追い払います。

言いわけなどは些細なことだ。まず、敵を倒すことだ

この措置を曹操に褒められ、益寿亭侯に封ぜられます。

しかし、219年、関羽に攻められた焚城へ救援に行くが、水攻めに遭い、命乞いをして降伏。捕まると、「三十年も仕えてきたのに……」と曹操を嘆かせました。

関羽の死後に孫権により、すでに曹丕の代になっていた魏に送還されます。命じられて曹操の墓参りに行くと、陵の前の壁に関羽の前で這いつくばる自分の絵が描かれていたのを見て、屈辱と憤怒のため、病気になって死亡しました。

正史の于禁

はじめ鮑信(ほうしん)に仕え、のちに都伯(武将の階級の一つ)として、 曹操配下の王朗所属になりました。

王朗の推薦で曹操に認められ、軍司馬になり、その後も次々に功を立て、陥陣都尉、平虜校尉、偏将軍、虎威将軍に昇進。

清廉だったが、部下に厳しすぎたため、人気はなかったといわれています。

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