【三国志 正史と演義の比較】袁術(えんじゅつ)、皇帝を勝手に名乗った男の悲惨な末路【史実との違い】




三国志

司空袁逢の子。袁紹の異母弟ですが、仲はあまりよくありません。

演義の袁術

反董卓同盟のひとりとして登場します。その戦いで孫堅が戦功をあげはじめると、孫堅の力が強大になるのを恐れ、兵士の食糧や軍馬のまぐさの輸送をしぶりました。

関羽の地位の低さをなじり、その関羽が 董卓配下の猛将華雄の首級をあげたのに喜んだ張飛の言動に怒りを表す場面もあります。

その後、劉表に兵士の食糧や軍馬のまぐさを借りようとして断られたため、劉表を逆うらみするようになった。

そこで劉表にうらみを抱いている孫堅に頼んで劉表を討とうとしました。しかし、孫堅は逆に殺されてしまいます。

孫堅の息子・孫策が玉璽をかたに兵を貸してくれと頼むと、喜んで玉璽を受け取りました。

朕が漢の跡を継いで皇帝になるのは、天の道にそったことなのじゃ。いらぬことをいうやつは斬って捨てるぞ」

後に、孫策が江東を平定し玉璽を返してほしいと頼むと「無礼なやつ」といって怒りだします。

このように自分勝手な言動が目立つ男です。

呂布が李催、郭汜に敗れて逃げてきたとき近寄らせませんでしたが、徐州の劉備が邪魔になると、呂布に攻めさせようとします。

ところが、呂布は衰術の考えを読んで動こうとしません。逆に攻めこんできた袁術軍を止めて仲裁してしまいました。

袁術は怒って呂布を討とうとしたが、紀霊の進言をいれて呂布の娘と自分の息子の縁談をすすめることとしますが、これも断られました。

玉璽を得たことで衰術はついに帝位を僭称します。そして呂布を攻めたが大敗。それに乗じて攻めてきた曹操にも勝てません。

その上、孫策、劉備、呂布にも囲まれてまさに絶体絶命。ついには都としていた寿春を捨てて逃げ出しました。

曹操の兵が引いた後、寿春に戻った袁術に呂布が縁談の話を再びもちだしてきます。呂布は曹操に攻められて味方が欲しかったのです。

そこでも、呂布が娘を渡すまで兵を出さないと主張する衰術。そうしているうちに呂布は亡びました。

袁術は賛沢がすぎて民から愛想をつかさ れてしまいます。将兵も次々と離れていきました。

威勢が落ちた衰術は袁紹に帝号を譲って助けてもらおうとしましたが、袁紹のところへ向かう途中で劉備に襲われてしまいます。

最期は兵もほとんどなく、食糧も尽きたまま、病を発し吐血して寂しく死んでいきました。

正史の袁術

何進が宜官に殺されると、哀術は嘉徳殿と青項門に火をつけて、十常侍をあぶりだそうとしています。

後に董卓の横暴を恐れて南陽へ逃げだします。長沙太守・孫堅が張咨(ちょうし)を倒したことから南陽を支配することとなりました。

正史でも欲望のまま費沢三昧な生活と重い税金から、民が苦しんだとあります。

袁紹や劉表との仲が悪くなると劉虞などと結んびました。

沛の相・陳珪とは若い頃からのつきあいで、袁術は彼を腹心にしようとして、息子の陳応を人質にとりました。

しかし、それでも陳珪はいうことをききません。最期は演義同様、電薄ら信頼する将 兵に裏切られたまま死んでいます。

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