【三国志 正史と演義の比較】袁紹(えんしょう)、名門出身も器が小さくかつての不良仲間・曹操に敗れ中原の覇者になれず…




三国志

字は本初。司徒汝南郡汝陽の人。四代にわたって三公を出した名門の家柄。司徒袁逢の庶子(正妻ではない女性が産んだ子)。袁成の養子。袁術の異母兄。

演義の袁紹

189年に霊帝が死ぬと、後漢の大将軍・何進に従って官官と対立するところから物語に登場します。何進が官官に殺されると宮中に押し入って宣官を皆殺しにし、董卓が権力を握ると反董卓同盟の盟主となり、戦うこととなります。

袁紹は、このどさくさにまぎれて公孫噴とともに冀州を奪おうとした。しかし、冀州の刺史・韓馥は配下の辛評にいわれて翼州を責紹に献じてしまいます。

そのため、分け前を要求する公孫瓚との間に確執が生まれました。 何度かの戦いのうちに公孫瓚を減ぼすと、劉備にけしかけられる形で曹操と対決します。

しかし、頼みの大将・顔良文醜は曹操のもとにいた関羽に殺され、手痛い敗北を喫します。そこで、200年には中原を制すべく、参謀・田豊から諌められたにもかかわらず、官渡曹操との決戦を挑みます。

兵の数では圧倒的でしたが、曹操軍の参謀・劉嘩の策などにより戦いは着状態に陥りました。このとき、 敵の兵糧不足を見 抜いた許攸が、曹操の本拠地である許昌を襲えと進言します。

しかし、許攸が曹操と昔なじみであること から、敵と内通しているだろうと怒鳴りつけます。そのため許攸は曹操に寝返り、味方の食料基地が襲われ大敗しました。この時、逢紀の讒言により田豊を殺しています。

この頃から袁紹は後継者問題に悩むようになります。そこから配下が長男の袁譚と、袁紹が溺愛する三男の袁尚に別れてつくようになりました。

再び曹操との間で倉亭の戦いが起こると、今度は敵の程昱がたてた「十面埋伏の計」により負けてしまいます。

たてつづけの敗北により弱った袁紹は病に倒れてしまいます。そして、袁尚が敗北したのを聞いた衝撃で、大量の血を吐いて死んでしまいました。

正史の袁紹

上流階級特有のおっとりとした上品さを保ち、感情を表に表わさなかったようです。

だが、内心は好き嫌いが激しく讒言を簡単に受け入れるなど狭量なところがありました。

若い頃は、曹操とは不良仲間でした。

董卓が少帝を廃して献帝を立てると、袁紹は韓馥とともに劉虞を皇帝に立てようとした。しかし、肝心の劉虞が応じようとしなかったため、この計画は頓挫してしまいます。

後に韓馥の冀州を奪い、199年に麹義に命じて公孫瓚を滅ぼし、河北に一大勢力を築きました。

献帝が河東に来ると配下の郭図は天子を迎えて郷を首都とするよう進言しましたが、容れませんでした。しかし曹操が献帝を擁すると後悔して曹操に帝を渡すよういったが、断られています。

後になって曹操に敗北すると冀州のあちこちで反乱が起こりました。平定したものの、 曹操との戦いのショックで憂悶のうちに死去しました。

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