字は彦緯。魏の薙州の刺史。
蜀の姜維の軍を7万の軍容で迎え撃つが、背水の陣をしいた姜維に敗れます。
敗走して狄道城(てきどうじょう)に入ったところを姜維の軍に囲まれます。しかし征西将軍・陳泰と兗州の刺史・鄧艾に救われました。王経は恩を受けたふたりをもてなし、軍をねぎらいました。
後に尚書として魏王・曹髦(そうぼう)に忠節を尽くします。
司馬昭の専横を憎んだ曹髦は、侍中の王沈、散騎常侍の王業と王経に、司馬昭の諜殺を謀ります。
王経は止めたが、曹撃は聞きません。王沈、王業は司馬昭へ報せに走りました。このとき王経も誘われたが、断っています。
演義の王経
曹髦が無謀にも300人の軍で司馬昭に立ち向かおうとするのを諌めました。しかし、曹髦は諌めを聞きません。
知らせを受けた司馬昭配下の賈充が、すでに南門で待ちうけていました。曹髦は、賈充配下の成済によって刺し殺された。王経は、母とともに東市で処刑されました。
「母上まで巻き添えにするとは、おれはなんという不幸ものだ」
このように王経は母に不孝を詫びたが、母は「死に場所を得た」と喜んびました。
正史の王経
許允とともに名士として有名でした。
最初、江夏の太守となります。薙州の刺史、尚書と昇進。
二千石になったとき、母は「農家出身で、 ここまでになった。もうやめておきなさい」と諌めたが聞かず、最期は処刑されました。
遺体は薙州刺史時代の部下の皇甫晏が、全財産をなげうって引き取り埋葬しました。