王粲(おうさん)、曹操を支えた博覧強記の奇才!その詩才も愛される!【三国志 正史と演義の比較】




三国志

字は仲宣。山陽郡高平県の人。曽祖父の王聾、祖父の王暢と、漢王室で三公をつとめた名門の家柄。

背が低く、外見はさえないが、 一読で碑文を暗踊し、乱れた暮盤を並べ直したほどの記憶力の持ち主。博覧強記の奇才。

演義の王粲

博学多才で、左中郎将の蔡邕に「わしも及ばぬ奇才」と高く評価されました。

蔡邕の家を訪れたときには蔡邕が慌てて履を逆さにはいて出迎えたほど。このとき蔡邕は「この方はまことの奇才。わしも遠く及ばぬ」と言ったと伝えられています。

算術にも優れ、また、当代きっての名文家でした。

十七歳で黄門侍郎に任命されるが、 乱れた長安を嫌って就任せず、荊州で劉表に招携されます。

しかし、容姿が貧弱で体も弱く、性格も大雑把だったため、劉表に嫌われ、あまり重用されませんでした。

劉表の死後、跡を継いだ劉綜に、曹操へ降伏するよう勧めました。その功で丞相操、関内侯となりました。

正史の王粲

劉表は、彼の容貌が醜いため、娘を嫁がせるのを止めています。

魏国建国後は侍中になりました。

散らばった碁盤の石を寸分狂わず元に戻せるほどの記憶力を持ち、新しい儀礼制度を制定する際は、かならず主宰をまかされていました。

見聞が広かったため、曹操と同じ車で物見に出ることが多かったといいます。

王粲「銅雀台の完成に際し、曹操殿の徳をたたえた詩を作ります

しかし、競争心も強く、杜襲がひとりで遅くまで曹操と会見した際、焼き餅を焼いて笑われています。

詩聖・曹植文才を愛され、士孫瑞とも親しかったといいます。四十一歳で死亡。

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