王戎(おうじゅう)、呉降伏の原動力にして晋国きっての才幹!竹林の七賢人の一人!【三国志 正史と演義の比較】




三国志

字は溶沖。郷堺臨近の人。涼州刺史の王渾(呉討伐を王濬と争った王渾[玄沖]とは別人)の子。

晋の司馬炎に仕え、後に「竹林の七賢人」のひとりに数えられたほどの才気ある人物。

鍾会の推薦で司馬懿に認められ、出世を重ね、晋の建威将軍として武功を立て、最終的に安豊侯、司徒にまで昇り詰めました。

演義の王戎

晋の建威将軍として登場。呉の討伐を決意した晋帝・司馬炎の命令で、武昌へ侵攻しました。呉降伏の原動力のひとりです。

ひと足先に建業を陥落させ、呉を降伏させていた王濬と石頭城で合流し、このとき王濬の労をねぎらっています。

正史の王戎

若い頃から学才を謳われ、荀寓(荀彧の孫)やらと都にまで名を知られたといいます。光禄大夫の時、鄧艾の孫、鄧千秋を取り立てています。

正史の『晋書』の列伝にもその名がみえます。のちに安豊侯に封じられ、司徒、光禄大夫を歴任しました。

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