字は伯益。穎川の人。郭嘉の実子。
演義の郭奕
ほとんど記述はなく、謀臣・郭嘉の死を大いに嘆き悲しむ曹操が、後に残された郭奕を、凱旋した許昌の自分の館に引き取るくだりが描かれているのみです。
正史の郭奕
正史によれば郭嘉の死後にはその跡を継いで太子文学となるが、早世したようです。
親しかった王昶(おうちょう)が、『家誡』の中で「酒脱で物事の理解が早く、物知りだった。反面、度量の広さが不足し、好きな人は徹底的に尊敬するが、嫌いな人はとことん軽んじた」と、郭突の人柄を書き残ています。
ただし、裴松之は王昶の人物評、特に批判的部分については一方的な見方もあるとしています。