許劭(きょしょう)、若き日の曹操の人物を「治世の能臣、乱世の奸雄」と言い当てる!【三国志】




三国志

字は子将。非常に優れた人物批評家としで、当時広く知られていました。

曹操は若いころ、彼のもとを訪れ、自分はどういう人間なのか質問した。許劭が黙っているので、また問うと「君は、治世にあっては能臣、乱世にあっては奸雄だ』と答えました。これを聞いた曹操は大いに喜びました。

史書によると、後漢末期、許劭は従兄の許靖と、故郷の汝南郡で入物批評会を開いていました。

この会は毎月の初め行われていたので、「月旦」(月の1日の意)と呼ばれていた。そのため後世、人物批評の事を、「月旦」と呼ぶようになりました。

のちに許劭は戦乱を避けて江南に移り、豫章郡で死去した。享年46歳でした。

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