許褚(きょちょ)、典韋にかわる、曹操の近衛隊長!関羽・張飛とも互角【三国志 演義と正史の比較】




三国志

字は仲康。身の丈八尺。腰まわりは十囲。

演義の許褚

大薙刀の遣い手。曹操が、汝南、穎川の黄巾残党を討伐に行なった際、何儀を追う典韋の前に登場。

一昼夜にわたって戦うが、勝負がつかない。彼の力量を見抜いた曹操は、典韋にわざと敗走するよう指示。

これにより許褚は、曹操の仕掛けた落とし穴にはまり、捕らえられる。都尉となり、曹操の戦いに従軍。活躍を見せる。

典韋没後は曹操の近衛隊長として呂布、袁紹との戦いでも勝利に貢献。関羽や張飛と互角に戦う腕力がある一方、許攸とのいさかいで斬り捨てるような短慮な面もあった。

官渡の戦いの後、冀州城に入ろうとした曹操を、許攸がからかった。このため許攸を斬り殺し、首を曹操に献上したが、怒られてしまう。

潼関の戦いでは、馬超に敗れて追われる曹操を背負って船に乗せた。そして群がる味方の兵を斬り捨て、片手に抱えた鞍で曹操をかばいつつ、片手で舟を漕いで、曹操の窮地を救った。

後に氷の城を築いた曹操は、だけを連れて馬超と会見。曹操に斬りかかる気でいた馬超だが、許褚に睨まれて引き下がる。

翌日、裸になって馬超と激しい一騎討ちを繰り広げ、馬超に「さすがは虎痴だ」と舌を巻かせる。

曹操を馬鹿にした左慈を捕まえよと命じられるが、追いつけず、羊を殺しただけで帰ってしまう。

曹操の死後、曹丕の命を受けて曹植らを連行した。

正史の許褚

容貌は雄々、毅然としてい。知力、胆力も人並み以上。一族郎党数千と砦を築き、一万余人賊と戦った。

戦闘中、食料が尽き、賊に和睦を申し入れ、牛と交換で食料を手に入れる。だが牛は、すぐに砦に戻ってきてしまう。そこで許猪は、片手に牛の尻尾をつかんで引っ張り、賊のもとへ近づいて行った。この人間離れした凄まじい怪力に、賊は驚て逃げて行ってしまった。

後、曹操が准南、汝南を平定した時、一族郎党とともに帰順。

曹操は「わが樊噲じゃ」と喜び、即日、都尉に任命した。曹操の宿直警護の役につく。また、郎党たちは「虎士」となった。

慎み深く、真面目で、口数は少な格。頑固なまでに法律を遵守した。虎のように強く、ボーっとしていることから、軍中では「虎痴」と呼ばれた。そのため、虎痴が姓名と思われていた。

張繍討伐で功を立て、校尉に昇進。兵士の徐他が許褚の休暇中に曹操暗殺を計画した。だが彼は、胸騒ぎを覚えて、曹操のもとへ戻る。それを知らずに、徐他は短刀を懐に忍ばせて曹操の帳内に入り、許堵に殺された。

滝関の戦いで馬超を破り、武衛中郎将に。のち中堅将軍に昇進する。

曹操が死ぬと、血を吐くほどに号泣し、深く悲しんだ

曹丕の代に、万成亭侯、武衛将軍となり、宿直の近衛兵を指揮して、曹丕にも親しまれた。曹叡のときに、牟郷候、関内侯に。 死後、壮侯と諡された。

曹操の死後は曹丕、曹叡のそばに仕え、終生魏のために武勇をふるった猛将だった。

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