なぜ秦は中華統一をできたのか?=信が出世できた理由!【漫画キングダム】




キングダム

始皇帝は紀元前221年に中国を統一しましたが、なぜ他の国ではなく秦だったのでしょうか?その理由を説明します。

その最も大きな要因は、始皇帝の統一からさかのぼること百年余り昔、戦国七雄の中で一番有効な政治改革をしたからだと言われています。すなわち、商鞅(しょうおう)による国政改革です。

商鞅、秦へ

春秋五覇に数えられる穆公(ぼくこう 前660〜621)の時代に強国となった秦だが、戦国時代初期は魏に押され気味だった。

そこで25代孝公(こうこう 前361〜338年)は広く人材を求め、秦を再び強国に押し上げようとした。

このとき、秦に仕えて国政改革を実行したのが衛の公族出身の商鞅である。

商鞍は最初、魏の宰相・公叔座に仕え、後に公叔座によって後継の宰相として魏の恵王に推挙された。

だが、その際、公叔座は「もし重用しないときは、彼を殺すように」と恵王に進言しており、しかも商鞅が重用される気配はなかった。

そこで、商鞅は秦へ逃れ、孝公に仕えて国政改革(変法 へんぽう)を行った。

人材登用改革

まずは民を什伍(民衆を5戸または10戸で1組に分ける)に編制し、互いに監視し合う連坐制を設けた。

誰か1人が罪を犯すと全員が責任を負うので、人々は悪事を行いにくくなった。

こうして人民支配を強化したことで、商鞅は、戦争で功を挙げた者には手柄に応じて爵位や金品を与える軍功授爵制を採り入れた

これにより、秦では農民出身の兵でも戦功を挙げれば出世できるようになった。漫画『キングダム』では、戦争孤児の少年,信が戦場で活躍して出世を遂げているが、彼が飛躍できた土壌をつくったのは商鞅だった。

他にも、遠縁の宗室や貴族でも活躍しなければ爵位を降下させる制度を設けた。

これは君主以外の公族の特権を奪うもので、君主に権限を集中させる中央集権体制の足がかりとなった。

これらの法令を徹底遵守させたことで秦の治安はよくなり、国力も富み、兵士も強くなった。

さらなる中央集権化

そして最初の改革から10年後、商鞅は新たな「変法」に取り組んだ。全国の集落を県に分け、それぞれに令(長官)と丞(補佐)を置いた。

さらに父子兄弟の同居を禁じ、核家族化を促して戸数を増やした。この第二次変法も成果を上げ、秦の中央集権体制はさらに精度が高まった。

しかし、特権を失われた宗室や貴族の商鞅に対する恨みは深く、前338年、最大の後ろ盾だった孝公が亡くなると商鞅は捕らえられ、車裂きの刑に処された。

だが商鞅が定めた法はそのまま残り、秦が中華統一を成し遂げる原動力となった。

参考:別冊宝島『春秋戦国時代合戦読本』、KAWADE夢文庫『始皇帝と戦国時代』

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