蜀の臣。蜀の滅亡に立ちあい、降伏した劉禅に従って魏に移った。
演義の郤正
諸葛亮の死後、宦官黄皓の讒言により冷遇され怒る姜維に対し、なだめて助言を与えた。
蜀が魏将鄧艾の侵攻を受けた折には、劉禅に諸葛亮の子の諸葛瞻(しょかつせん)を起用するよう勧めた。
蜀の滅亡後、郤正は樊建、張紹ら数人とともに、劉禅に従って洛陽に送られた。
宴席で劉禅は司馬昭に蜀が恋しくないかと問われるが、「ここが楽しいから、別に恋しくありません」と答える。
見かねた郤正は、手洗いに立った劉禅の後を追い「もし、また問われたら泣きながら『親たちの墓が遠い濁にあるので毎日悲しい』とお答えなされ。きっと蜀に帰らせてもらえるでしょう」と説く。
席に戻った劉禅は、言われた通りに話し、泣こうとするが、涙が出ないので失敗する。郤正の入れ知恵だと司馬昭に看破されてしまった。
正史の郤正
三十年にわたり宦官黄皓と屋敷を並べる仲だったが、気に入られることもなく嫌われることもなかった。そのため際立った出世はなく、一方で陥れられることもなかった。
降伏するにあたり、劉禅が落ち度なくふるまうことができたのは、妻子を捨てて同行した郤正のおかげだった。
後に論文の中で、世間で評価の低い姜維について、学問を好み質素な生活に甘んじたことを評価している。