厳綱(げんこう)、公孫瓚軍の大将のひとりで袁紹軍に敗れる【三国志 演義と正史の比較】




三国志

北平太守、公孫瓚の配下で、大将のひとり。公孫瓚の命を受けて、冀州の刺史を務めた。

演義の厳綱

袁紹に弟の公孫越(正史では従弟)を殺されたことが発端となり、公孫瓚と袁紹は全面対決に突入。

厳綱はこの一戦で大将のひとりとなり、衰紹軍と対時した。

公孫瓚の弟である公孫越が衰紹の謀略で死に、怒った公孫瓚が袁紹軍と争った際の2度目の戦いで先鋒となる。

この戦いで厳綱は、敵がまったくしかけてこないので、正面の麹義軍に突撃をかけた。しかしこれは麹義の策略で、正面の麹義と左右の顔良・文醜が率いる計2800の脅隊が一斉に厳綱軍に襲いかかってきた。

厳綱軍はこれで動きが止まり、馬を返そうとした厳綱を、麹義は一刀のもとに斬り捨てた。これにより公孫瓚軍は本隊も動揺し、敗走を余儀なくされた。

正史の厳綱

田楷が青州を、単経が兗州を与えられた時、厳綱も冀州の刺史に任じられた。

一説には麹義に殺されず生け捕りになったともいう。

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