張昭の推挙があって孫権に仕え、騎都尉
争中郎を拝命。孫権が皇帝になると衛尉に昇進し、亡くなる時には尚書令だった。
演義の厳畯
南下する魏に備え、呉を味方につけたい孔明は、孫権を説得するため呉に乗りこんでくる。
この時孔明をいい負かすべく論陣を張ったうちのひとり。
厳畯は諸葛亮の論理を強弁とし、いかなる書物を読み学問をしてきたのか質問した。
それに対し諸葛亮は、書物の言葉にとらわれるのは腐れ儒者のすることで、実際に国を治めることはできないと喝破する。
さらに太公望、張良など実在の人物を例にあげ、彼らが特定の学問にとらわれたことはないと論じ、机上の空論ばかりを求める書生論議を否定した。
厳唆は気を奪われて、答えることができ
なくなってしまった。
かくして、逆に厳畯を含む呉の論客たちは論破され、呉は魏との戦いに引きずり出された。
正史の厳畯
諸葛瑾、歩騭(ほしつ)と特に親しかった。
魯粛の死後、陸口の守りを命じられるが、軍事は苦手と固辞した。事実、厳峻は馬に乗れなかった。『孝経伝』などの著書がある。