厳畯(げんしゅん)、孫権に仕え、諸葛亮に論破される呉の幕僚のひとり【三国志 演義と正史の比較】




三国志

張昭の推挙があって孫権に仕え、騎都尉

争中郎を拝命。孫権が皇帝になると衛尉に昇進し、亡くなる時には尚書令だった。

演義の厳畯

南下する魏に備え、呉を味方につけたい孔明は、孫権を説得するため呉に乗りこんでくる。

この時孔明をいい負かすべく論陣を張ったうちのひとり。

厳畯は諸葛亮の論理を強弁とし、いかなる書物を読み学問をしてきたのか質問した。

それに対し諸葛亮は、書物の言葉にとらわれるのは腐れ儒者のすることで、実際に国を治めることはできないと喝破する。

さらに太公望、張良など実在の人物を例にあげ、彼らが特定の学問にとらわれたことはないと論じ、机上の空論ばかりを求める書生論議を否定した。

厳唆は気を奪われて、答えることができ

なくなってしまった。

かくして、逆に厳畯を含む呉の論客たちは論破され、呉は魏との戦いに引きずり出された。

正史の厳畯

諸葛瑾、歩騭(ほしつ)と特に親しかった。

魯粛の死後、陸口の守りを命じられるが、軍事は苦手と固辞した。事実、厳峻は馬に乗れなかった。『孝経伝』などの著書がある。

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