黄祖こうそ、孫堅・孫策・孫権という孫家三代の仇敵【三国志 演義と正史の比較】




三国志

演義の黄祖

袁術の指示で孫堅が劉表に攻撃をかけてきたとき劉表の先手として江夏の軍を率い、樊城で戦った。

しかし敵将程普や黄蓋に本陣を襲撃され大敗して鄧城へと逃げこんだ。

敵将孫堅が死んだ後の戦いでは勝利したのだが、黄蓋に追い詰められ生け捕りにされてしまう。

その身柄は劉表の手にある孫堅の死骸と交換された。

後に孫権と数度戦ったが建安十三年(二〇八)の戦いでついに撃破された。

自分の手を汚して評判を落としたくないと考えた劉表に狂士禰衡を送りつけられたが「きさまなど詞の神様だ」といわれて激怒し、斬り殺した。

孫権に攻撃されるが、配下の甘寧が敵将凌操を射殺したため、孫権は撤退した。

ところが、黄祖の待遇に不満を抱いていた甘寧は、手勢を連れて孫権に投降する。

黄祖「甘寧はたかが賊ではないか重く用いることなどできんわい」

それを機に孫権の大攻勢を受け、黄祖は大敗する。

江夏を放棄し、襄陽へ逃走中、甘寧に待ち伏せされ、首をとられた。

正史の黄祖

夏口に駐屯していた頃、彼の息子と禰衡とが親しかったので紹介された。

最初黄祖は禰衡の才能を評価したが次第に相手の態度が撒慢になるにつれ馬鹿にされた気になって腹を立てて近習に殺させた。

最後に孫権に敗れて、逓則という騎士に首をとられた。

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