晋の武帝。司馬昭の長子。河東郡温県の人。
晋王司馬昭の後継者になり、魏王朝最後の皇帝曹奐禅譲を受けて晋朝を開いた。
さらに天下を統一するために呉を平定し、彼の登場で三国の分裂の時代にいちおうの終焉を見た。
演義の司馬炎
人物魁偉、立てば髪は地にとどき、両腕は膝の下に達した。
また聡明にして武勇抜群で豪胆無類の男という描写で登場する。
しかし父の司馬昭は司馬炎より次子の温和で孝悌な可馬攸を後継者にと考えて悩んだ。
山濤や賈充らがこれに反対して司馬炎を晋王に推した。彼らはやがて司馬炎の腹心として活躍する。
晋王になると司馬昭の進めていた魏から天下を奪う方法を賈充たちと相談し、かつて漢の献帝から魏の曹丕が行なったそのままを踏襲した。
賈充らと謀り、帯剣のまま後宮に入ると、魏帝曹奐にせまり、禅譲を承諾させる。受禅台を築かせると、そこで玉璽を受け取り皇帝となった。
襄陽に駐屯する都督羊祜(ようこ)は、呉帝孫皓の暴政を知り、呉の討伐を申し出るが、賈充らの反対で実現せず。
やがて羊祜が後任に杜預を指名して病死すると、司馬炎は慟哭した。
その後、王濬と杜預から、呉の討伐の申し出を受けると、杜預を大都督として、呉に侵攻を命じ、ついに天下は晋一国となった。
建業を陥落させると孫皓を洛陽に連行し帰名侯に封じた。
正史の司馬炎
正確には「晋書』に属する人物なので「三国志』(「正史」)の記述はほとんどない。