呉の武将。九江郡下蔡の人。
字は幼平。蒋欽とともに長江で河賊などをしていたが、孫策の評判を聞きつけ、蒋欽や配下とともに取りたててもらう。
蒋欽とともに孫策の配下に入り戦いのなかで手柄をたてた。 その後、孫権に仕えた。
宣城では山越の暴徒に襲われた孫権を身を挺して守った。後に黄祖征伐や赤壁の戦いでも活躍した。
演義の周泰
孫権を助け宣城の守備についた。このときに山賊に襲われた孫権を背負いながら逃げた。この際全身に受けた傷によって瀕死の重傷となり、華佗の治療で一命を取りとめた。
劉備と孫夫人の婚礼では孫権に命じられふたりの首を取ろうと追いかけて失敗する。
曹操が赤壁の雪辱戦を挑んできたときにも、敵に囲まれた孫権をふたたび傷だらけになりながら救い、孫権に感謝された。
数年後、劉備の呉への侵入の時にはすでに古参の武将として従軍。
はじめは若き総大将の陸遜の策を嘲笑するが劉備軍を撃破した手腕に感服し、自身も敵将の沙摩柯(しゃまか)を討ち取り戦勝に貢献した。
正史の周泰
宣城での功績で宜春県の長となり赤壁の戦功で濡須の督、平将軍となった。
しかし彼の配下になった朱然や徐盛は指示に従おうとしなかった。
孫権は宴席を設け昔の戦いでの周泰の功労を皆に聞かせ納得させた。
武功だけでなく孫権には恩人として遇され、後に漢中太守に封じられた。