鍾会 しょうかい、鄧艾のライバル!魏末期の切れ者だが、姜維と叛乱【三国志 演義と正史の比較】




三国志

魏の将軍。字は士季。穎川郡長社県の人。

夏候覇が、魏で鄧艾と並んで油断のならない人物と評した武将。

司馬昭に 「わたしの子房だ」と信頼される。

鎮西将軍に任じられ鄧艾と競う形で蜀攻略を命じられた。

成都陥落を鄧艾に先を越されると、降将の姜維と蜀を奪おうとする。

しかし、従わない魏兵に殺された。

演義の鍾会

中書侍郎の頃、司馬師が持病の悪化で急死。

動揺する司馬昭を諌め魏の兵権を引き継ぐ方策を進言。

つづいて諸葛誕の乱でも司馬昭の参謀として活躍した。

そして蜀攻略。

彼はただちに青州、予州、揚州などに造船を命じた。

はじめから蜀を平定した後に魏を攻撃するつもりだったのだ。

司馬昭はわざと気づかぬふりをする。すでに鍾会の野望は見抜かれていた。

やがて成都で宿願を果たす前夜数十匹の蛇に噛まれる凶夢を見て後に殺された。

正史の鍾会

太博・鍾繇の子。

名士の子で二十歳で出仕しその才能を高く評価され若くして高官に就いた。

裴楷や王戎など才ある名士を司馬昭に紹介した。

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