諸葛恪 しょかつかく、孫権の死後、姜維と協力して魏と戦った呉の大将軍【三国志 演義と正史の比較】




三国志

字は元遜。諸葛瑾の長男。

幼少から聡明さで知られ、孫権に愛された。諸葛瑾、陸遜死後は、呉の実力者になった。

呉の大将軍、太子太博。

演義の諸葛恪

孫権の死に乗じ魏が出兵してきたが、諸葛格はこれを撃破。

逆に魏への出兵を強行するが、この出兵は失敗し、多数の兵を失った。

諸葛格は自分の失敗を責められるのを恐れ、ほかの将軍や官僚のあら探しをして次々に処刑していった。

また孫権の死後、蜀の姜維と協力して魏を討とうとする。

この時不吉な前兆が現われ、蒋延が出陣を止めたため、怒った諸葛格は蒋延を民に格下げした。

魏の新城を落とすことができず、この失敗を恐れて屋敷に篭り、過失のあった部下をことごとく処分する。

孫峻らは密かに諸葛格暗殺をはかり、孫亮もこれを許した。諸葛格は参内したところを斬り殺された。

父の諸葛瑾は生前、諸葛格は聡明すぎて身を滅ぼすと予言していた。

正史の諸葛恪

張休、顧譚、陳表とともに太子孫登の四友に選ばれる。

丹陽太守として陳表とともに山越を征伐、功績をあげたので、建業に帰還して大将軍と太子大博を兼任した。

孫弘、朱然の子朱績らとは不仲だった。孫権の死後、孫弘を詠殺した。

五十一歳の時、酒宴の席で孫峻に斬り殺される。

のちに孫峻は、諸葛格になぐられる夢を見て恐れのあまり死んだ。

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