張昭 ちょうしょう、呉の重臣で非戦の戦略家【三国志 演義と正史の比較】




三国志

演義の張昭

張紘とともに「二張」と称された。

周瑜の推薦で、自ら招聘にやってきた孫策に仕える。

孫策の死後は孫権に仕えるが、その進言は、どちらかというと非戦主義。

黄祖討伐の時も、赤壁の戦いの時も、開戦には反対した。

後に、孫権に帝位に就くよう勧め、孫登の右弼となる。

正史の張昭

若い頃から学問を好み、隷書に優れていた。東海の王朗らと親しく交わり、ともに名を馳せた。徐州の陶謙が彼を茂才に推薦したが、これに応じなかったため、陶謙に憎まれ牢に入れられたこともあった。

後漢の混乱を避け、江南へ移住。

孫策に招聘され、長史、撫軍中郎将に任じられる。

孫策は、文武の諸事一切を彼に委ねた。

この時、北方から来る友人の手紙は、彼を褒めるものばかり。これを孫策に見せれば自慢と取られるし、見せねば謀反を企んでいると疑われかねない。

悩む張昭に、孫策は「かつて斉の桓公は、参謀の管仲を信じて、すべてを委ねた。わたしはこの故事に倣いたい」と、張昭への深い信頼を示して安心させた。

孫策は臨終の際「もし孫権に能力がないなら、あなた自身が政務にあたってほしい」といって、孫権の輔佐を頼んだ。

孫策の死に打ちひしがれる孫権を「匹夫の情に溺れ、家に籠っていてどうする」と叱咤激励し、無理矢理、呉の君主の座に就けた。

剛直で頑固な性格で、孫権にもたびたび直言をして憎まれた。

遼東の公孫淵が呉に降伏したいと申し入れてきた時も、頑固に反対。意見が容れられないと、病気と称して家に引き籠もった。怒った孫権が、家の外を土で塞ぐと、彼も対抗して、内側に土を盛った。後に張昭の正しさが立証され、孫権が、屋敷の前まで行って謝った。

しかし彼は、それでも出てこない。それならと孫権が屋敷に火を放ったが、まだ出てこない。息子たちが彼を無理矢理抱えて連れ出したため、ようやく和解した。

だが、 孫権も負けてばかりはいない。

帝位に就いた祝宴の席で、かつて曹操の大軍が南下してきて、降伏か開戦かの決断を迫られた時、張昭が降伏を主張したことを取り上げ、「もしあのとき、張昭の言に従っていたら、いまごろは帝位どころか、人に食べ物を恵んでもらっていただろう」と皮肉をいった。

これを恥じて、病気になる。そこで、官位、兵権、領地のすべてを返上し、隠居生活を送った。

その後は好きな学問に専念し『春秋左氏伝解」と「論語注を著わした。二三六年死亡。葬儀は遺言に従って、簡素に行なわれた。

タイトルとURLをコピーしました