郝昭(かくしょう)、司馬懿に抜擢され諸葛亮を苦しめた知将【三国志 演義と正史の比較】




三国志

字は伯道。太原の人。

演義の郝昭

魏の雑覇将軍(覇は号の誤記とされる)。都督であった司馬懿の推挙で陳倉を蜀の攻撃から守る役目を与えられました。諸葛亮の北伐を阻む役目でした。

諸葛亮は、郝昭と同郷の詳を使者に遺わし、降伏を勧めます。しかし、郝昭は矢をつがえて詳を狙い、追い返してしまいます。

諸葛亮軍は数万、郝昭軍は三千人あまり。勝負はすぐに決まるかと思われました。

しかし郝昭は諸葛亮軍に対し一歩も引きません。その防御は見事という他なく、孔明を苦心させます。

郝昭「諸葛亮よ、とっとと攻めてくることだ。手ぐすねを引いて待っておるぞ」

まず諸葛亮は魏延に命じて陳倉を攻めさせるが破れません。

諸葛亮が雲梯で攻めると火矢で応じ、衝車(戦車)で押し出せば投石でこれを破壊。

諸葛亮は廖化に命じて地下道を掘らせるが、郝昭は堀割を掘って防戦。

昼夜に渡る攻防戦は二十日あまりも続きましたが、城は落ちませんでした。

そこへ魏の王双が現れたため、諸葛亮は魏延を陳倉に残し、祁山へ方向転換しました。

諸葛亮は姜維の言葉に従い、いったん軍を退きました。しかし、郝昭が病気になったと聞くや、諸葛亮は一気に陳倉城に襲いかかりました。

病床の郝昭は城の各門に火の手が上がったことにショック死してしまいました。城は陥落しました。

正史の郝昭

果敢で力が強く、若くして軍隊に入り、たびたび戦功を立て、雑号将軍になります。

十年以上に渡って河西一帯を守りました。西平の麹英の反乱の際、鹿磐とともに討伐に行き、これを殺しました。

諸葛亮の北伐から陳倉城を死守した功で、曹叡に、列侯の爵位を下賜されました。

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