やや玄人向け!趙雲が人気がある本当の理由 その実像について!関羽・張飛よりも圧倒的に優れている点とは?




三国志

三国志フアンの中でずっと人気上位なのが趙雲です。ランキングによってー番人気だったりします。なぜでしょうか?

確かに容姿は大きな要素です、身長八尺、容貌秀麗とつたえられています。それなのに、派手なわけでも、目立とうともせず、与えられた仕事を、無理であっても着実にこなす、仕事人的な側面もあります。そしてもちろん武勇に秀でています。

僕はそういった理由に加えて、それらを支える人間的な美質を備えていたからだろうと思います、この点を少しマイナーな、目の肥えたファン向けのエピソードを紹介することで探ってみたいと思います。

冷静沈着

第一は冷静で慎重な点でしょう。

博望坡の戦い(203)の時、彼は同郷の幼なじみ夏侯蘭を生け捕りました。

趙雲は彼が法律に明るいことから、命を助けて軍正(軍の監察官)に推薦しました。しかし夏侯蘭を身近に置かず、あらぬ疑いをかけられぬ心配りをしていました。

赤壁の戦い(208)の後、趙雲は劉備に命じられて桂陽に赴き、元の太守・趙範と交替しました。

この時、趙範は兄の美しい未亡人を趙雲に娶らせようとしましたが、趙雲は「趙範は迫られて降伏しただけで、その心底は測かねる。天下に女は少なくない」と言って承知しませんでした。

どこから無欲というか、禁欲でさえあって人間的な面白みには欠けますが、良将の鏡のようではあります。

着眼大局

第二に、彼が大局的な視点の持主だったことです。

呉の裏切りによって劉備が股肱と頼む関羽が殺され、怒った劉備が呉を撃つべく群臣に諮りました。

劉備の固い意志をさすがの孔明も止めらませんでしたが、独り趙雲は「国賊は曹操であって、孫權ではありません。魏を撃つことが先であり、魏が滅べば、呉は自ずと降伏するでしょう。いったん戦端を開けば、それは終結させがたいものではありませんか」と反対しています。

この意見が採用されていたならば、その後の歴史は大きく変わっていたはずですね。

関羽張飛との比較

229年、趙雲は病没しました。それでなくとも人材不足に苦しむ蜀にとって、彼の死は大きな損失でした。

劉備の創業を援けた関羽も張飛も非業の死を遂げましたが、趙雲はある意味安らかな死だったと言えるでしょう。

関羽と張飛が殺されたのは、自尊心が強過ぎたり部下を侮ってしまうという、性格的な欠点に理由がありました。

これに対して趙雲は優れた人格の持ち主でした。

後に趙雲は生前の功績によって「順平侯」という諡 が追贈されました。

諡号の規定によれば、柔順・賢明・慈愛・恩恵を持つ者は「順」、災禍・動乱を平定するのは「平」ということです。その人の生前の功績・罪過・性格を考え併せて贈られるのが諡号ですが、彼に贈られた「順平侯」の三文字には、節度ある行動と華々しい戦功に飾られた趙雲の生涯が、みごとに凝縮されているではないでしょうか。

実は影が薄い?

実は趙雲伝の本伝の字数は346字しかありません。ここに記されているのは、初め公孫瓚に仕え、後に劉備に仕えて当陽長阪の戦いで劉輝とその母を救ったこと、第一次北伐では鄧芝とともに囮の軍を率いて曹眞の大軍に遭遇、大敗には至らなかったが鎮東将軍から鎮軍将軍に位を貶されたこと、後に順平侯と追諡されたことだけです。

では、私たちが知る趙雲の大活躍や優れた美質は何に基づいているのでしようか?

それらは本伝に引く『趙雲別伝』に拠るものです。本項でもそうですが、『演義』は別伝の記事を全て用い、これによって趙雲は大きな人気を得ています。歴史家よりも民間に支持されており、これは現在でも日本でも変わりませんね。

面白いことに演義の作者・羅貫中も趙雲のファンだったらしく、彼の病死を知った孔明に、作中で「子龍の死は国家にとっては棟木を失ったも同然、私にとっては片腕を奪われたようなもの」(第九十七回)と言わせています。ちなみに意外だが関羽・張飛の死を悼む孔明の言葉はありません。

実際の序列

ライトな三国志ファンにとって、趙雲は、劉備配下で関羽、張飛に次ぐ地位のように受け取られがちですが、実は全く異なります。

例えば、諸葛亮が三顧の礼によって加入した207年頃、趙雲は、役割こそ異なるものの、外交担当の簡雍や孫乾と同格程度です。重臣ではあるものの、関羽や張飛に次ぐ地位ではありません。

また蜀建国時は、同じ五虎将軍(演義)ながら、中途加入の黄忠と馬超よりも明確に下位の扱いでした。

蜀を支えた人物を讃える『季漢輔臣賛』では関羽、黄忠、馬超、張飛らが10番以内に名が挙がっているなか趙雲だけが25番目と低いのです。

さらに北伐の頃でも、関羽張飛はもちろん、馬超や黄忠もすでにこの世にいないのに、軍のトップではなく、呉い・魏延・姜維・馬謖とほぼ同格に過ぎません。おそらく生粋の軍人であり、会社で言えば、本部勤務ではないのです。

とはいえ、劉備と劉禅に長く仕え、諸葛亮からの信頼も篤い忠義の人物だったことは間違いありません。

参考:『三國志群雄錄 增補改訂版』徳間文庫、『歴史旅人vol.3』晋遊舎、『史実 三国志』宝島社

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