太史慈 たいしじ、孫策に忠節を尽くした勇将【三国志 演義と正史の比較】




三国志

東莱郡黄県の人。

演義の太史慈

孫策が曲阿の劉繇を攻めたとき、神亭で一騎討ちをする。孫策と五分に戦うが、両軍の援軍が駆けつけたため、戦いは中断された。その後、劉繇軍は孫策軍に大敗。

太史慈は敵討ちとばかりに、城に立て籠る。だが、太史慈に惚れこんだ孫策に罠をしかけられ、捕まってしまう。

降伏した太史慈は、孫策のために劉繇の残党を集めると約束し、一日で戻ってくる。

孫策の死後は、孫権に仕えた。合肥の戦いの際、諸葛瑾が止めるのも聞かず、張遼陣に攻めこむが、逆に張遼の待ち伏せに遭い、数本の矢を受けて敗走。なんとか陣に戻るものの、矢傷は癒えず死亡した。享年四十一歳。

正史の太史慈

若い時は学問を好み、郡の奏曹史を務めた。身の丈七尺七寸。腕が長く、弓を射れば百発百中の名手だった。

二十一歳のとき、都へ上奏文を運ぶ使者に選ばれ、策略で州からの使者を出しぬき、郡の上奏を取り上げさせた。だが、このため州の役所から憎まれ、遼東に逃げる。

彼の留守の間、太史慈の噂を聞いた北海の相の孔融が、彼の母親の面倒を見た。その恩に報いるため、折りしも都昌で包囲を受けていた、孔融の救援に駆けつける。

平原の劉備に援軍を求めたいという孔融に、使者の役を買って出る。だが、包囲網を抜け出るのは容易ではない。そこで、弓矢と的を持って城外にそこで、弓矢と的を持って城外に出ると、連日、弓の稽古をはじめた。

はじめは驚いて集まってきた包囲軍も、やがて見慣れて、集まってこなくなった。その隙をつき、一気に馬を蹴って包囲網を突破。見事に使者の役目を果たす。

後に、楊州刺史の劉繇のもとに身を寄せる。そのとき、孫策が劉繇を攻めた。太史慈を大将軍にして、孫策に当たらせるべきだという者があったが、劉繇は彼に騎兵ひとりだけを与え、偵察の役目につかせた。

劉繇が孫策に敗れると、敗走の途中で姿をくらまし、勝手に丹楊太守を称した。孫策に反抗する山越の民を味方につけ、駐屯する。

だが、ついに孫策の攻撃を受け、捕虜となった。孫策は、自ら太史慈の縄を解き、呉郡の兵を預け、折衡中郎将とした。

劉繇が豫州で死亡すると、その残党兵を孫策の味方とすべく、「六十日以内に帰る」と約して出立。裏切りを心配する者もあったが、孫策は彼を信じた。

はたして彼は、約束の期日通りに戻ってくる。のち、建昌都尉に任命され、劉表の甥、劉磐の進攻を防いだ。

太史慈の噂を聞いた曹操は、当帰(薬草)の入った箱を贈り、彼に「帰る当し」(帰順せよという意を含む)と謎をかけたが、太史慈は動かなかった。

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