陳登 ちんとう、陶謙の部下から劉備の参謀にもなり呂布を翻弄【三国志 演義と正史の比較】




三国志

広陵の人。陳珪の息子。

演義の陳登

徐州の陶謙の部下。陶謙の死後、徐州を継いだ劉備の参謀になる。

父の陳珪と共に、徐州を守るために暗躍。

呂布の使者として許都に行き、曹操に気に入られ、広陵太守となる。

この時曹操に、呂布を倒すよう進言。内応を約束した。

曹操の呂布討伐がはじまると、呂布を騙して徐州城を奪う。

呂布の死後、曹操に反乱した劉備が敗北し、逃走すると、曹操に徐州城を献じた。

正史の陳登

誠実で思慮深く、文学的才能もあった。

二十五歳で東陽の県長になる。

その後、徐州牧の陶謙の推挙で典農校尉に。

曹操が呂布を攻めた時は、郡兵を率いて駆けつけ、先駆けを務めた。

この功で、伏波将軍となる。

この後、江南の孫策の攻撃を受けても、智謀と策略で撃退し、孫策軍に多大なダメージを与えた。

領民に慕われ、東城の太守に転任の時も、ついてくる領民がいたほどだった。

三十九歳で死亡。死因は、三年前に華佗が治療した、胃の中に虫がたまる病気だった。

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