【三国志 正史と演義の比較】伊籍(いせき)、荊州時代の劉備を救った命の恩人!蜀建国にも大きく貢献【史実との違い】




三国志

演義の伊籍

字は機伯。山陽郡の人。荊州刺史・劉表の幕客。しかし、主人の劉表より、居候の劉備に味方しました

劉備が献上した馬を、劉表がそのまま返した理由をこっそり劉備に告げます。
実はその馬が「的盧」という凶馬であることを知り、劉備に教えたのです。

劉備殿、その馬は的盧といって乗り手を祟る凶馬ですぞ

乗り手に不幸をもたらす凶馬だから、受け取らない方がいいという伊籍に対し、劉備は「馬に人の人生を変える力はない」と平然としていました。

伊籍はこの態度に感銘を受けて劉備に心服。

後に、劉表の後妻、蔡夫人の弟の蔡瑁(さいぼう)が劉備暗殺を企てていることを知り、劉備に知らせて、逃しています

劉表の死後、劉表の長子・劉玲の使者として劉備を訪れ、荊州を取ることを進言するが、劉備は決断がつきませんでした。

やがて結局襄陽を手に入れた劉備に、土地の賢者であった馬良ら5人の兄弟を推薦しました

その後、関羽の輔佐として荊州にいたが、関羽の焚城攻めの際は、馬良とともに成都へ行き、命拾いしました。 

昭文博士として劉備を帝位に即かせようとしたメンバーのひとりです。

正史の伊籍

劉備の成都入城後、左将軍従中郎となりました。

呉の孫権への使者になったとき「無道の君主に仕えて苦労するのか」と皮肉をいわれ、「一度拝礼して、一度立つだけの
ことで、 苦労というほどのことはありません」と切り返し、孫権に感心されました。

のちに昭文将軍に昇進。諸葛亮、法正、劉巴、李厳とともに、蜀の法律である「蜀科」を作りました。

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