夏侯淵(かこうえん)、曹操軍第一の重鎮!しかし最期は短気がもとで黄忠に斬られた…【三国志 演義と正史のちがい】




三国志

夏侯惇の従弟。曹家に養子に入った曹操の父の一族のひとり。

演義の夏侯淵

曹操軍の支柱

董卓暗殺に失敗した曹操がおこなった義兵募集に応じて夏侯惇とともにやって来た。それ以降、曹操の将として数々の戦場に出陣します。まさに曹操軍の支柱ともいうべき存在となります。

弓術に優れ、曹操の新宮である銅雀台の落成のとき、弓の腕比べをおこない、的に刺さった4本の矢の真ん中に射当てるという神技を披露しました。

曹操と袁紹の決戦である倉亭の戦いでは程昱が献策した「十面埋伏の計」を遂行し大勝しました。

馬超の反乱の時には曹操を襲う馬超を側面から叩き、敗走させています。そして曹操の命令で長安に留まって守りを固めたのです。

漢中攻めでは先鋒を務め、張魯軍の昌奇と楊任を討ちとった。そしてほかの将とともに龐徳を落とし穴に追いこみました。

定軍山に散る…

その後、定軍山の守りをします。天蕩山にいた張郃と夏侯尚が蜀の将軍・黄忠に敗北して逃げてくると、夏候淵は曹洪を使者にたてて曹操に知らせました。

曹操は援軍を率いて自ら出陣した。夏侯淵は短気なので援軍が着くまでうかつに攻撃させるとまずいという劉嘩の進言を容れて曹操は夏候淵にいたずらに力を頼らず「妙才(夏候淵の字)」を表わすようにという手紙を書きました。

戦おうとしない夏侯淵をおびきだすために、黄忠は進軍していった。張郃が諌めるのも聞かず、夏侯淵は黄忠の陣に討ってでました。

夏侯淵「黄忠が向かいの山を攻め取って、こちらの様子を眺めているのだぞ。撃って出ぬということはあるまい」

そして、敵将法正の策にかかり夏侯淵は黄忠に斬り殺されたのだった。その知らせを聞いた曹操は声をあげて泣いたという。

正史の夏侯淵

急襲が得意

曹操は故郷にいた頃、なんらかの罪を犯した事があった。夏候淵は身代わりとなって重い罪を引き受けたが、曹操によって救出されました。

夏侯淵は急襲が得意で常に敵の不意を衝いた。そのため、軍中の人々は「典軍校尉の夏侯淵、三日で五百里、六日で千里」と語りあったという。

韓遂討伐

馬超との反乱に敗れた韓遂は略陽城に逃げこんだ。夏侯淵の配下の武将は、韓遂族を攻めようと進言した。

しかし、夏候淵は長離にいる羌族を討伐することにした。 韓遂の兵は強く、城を攻めたところで落とせないだろう。だが、韓遂の兵の多くは長離の羌族である。本拠地を攻められたとあっては放っておけないだろう。 韓遂も羌族を見捨てたら孤立することになる、との読みです。

結果は夏侯淵の考え通りになり、韓遂は夏侯淵の軍と対時した。夏候淵は配下の兵を鼓舞し、これを大いに破ったのでした。

短気が仇に…

夏侯淵は向かうところ敵なし、といった猛将だったが短気なところが欠点でした。

曹操は夏侯淵にいつも「指揮官という者は臆病な時もなければならない。勇気だけを頼みにするな」といい聞かせていたという。

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