【三国志 正史と演義の比較】王允(おういん)、「連環の計」すなわち貂蝉と呂布を使って董卓を討った策士




三国志

字は子師。大原郡裕県の人。後漢の司徒。後に魏の文帝(曹丕)に重用された王淩の叔父。

演義の王允

大将軍・何進謀殺後の混乱の中、宦官の張譲、段珪によって連れ出された少帝と陳留王(のちの献帝)を出迎えます。

何進亡き後に権力を握った董卓の横暴に眉をひそめてはいたが、なかなか動けませんでした。

袁紹から董卓謙殺をもちかける密書が届き、密かに自宅に大臣たちを招いたが、良い対策も浮かばず、ただ悲しんで泣くばかり。

それを笑い飛ばし「董卓を殺してみせる」と豪語する曹操に、暗殺を依頼。七星剣を与えました。しかしこれは失敗します。

長安に遷都の後、ついに歌姫の貂蝉を使って、呂布と董卓の仲を裂く「連環の計」を成功させ、呂布に董卓を殺させました。

しかし、李催ら元董卓配下の者どもが長安に攻めこみ、献帝に「王允を引き渡せ」と要求。

これを聞いた王允は「王允ここにあり」と城門から飛び降り、彼らに殺されました。

正史の王允

若いとき、名士の郭泰に「天子を補佐する才を持っている」と高く評価されました。

政治の仕方は道義に叶っていたため、董卓にも信頼されていました。

普段から呂布と親交があり、呂布が董卓に殺されかけた話をしたため、董卓暗殺を持ちかけました。その死後、李催らによっ、遺体は市にさらされました。

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