穎川の生まれ。荀彧の推薦で曹操の幕下に入った。
演義の戯志才
記述なし。
正史の戯志才
策略に優れた軍師的な存在で、 曹操に重く用いられた。
時期的には呂布との戦いから対表術戦あたりまでの頃に活躍した。病気のため早世し、曹操の幕下にいたのはわずか数年だった。
戯志才の死を悼んだ曹操は、「彼が死んだ後は、計略を相談できるような人材が側近くにいない」と荀彧に愚痴をこぼし、また、戯志才の後任を早く選んでくれるよう、頼んだほど。この時、荀彧が推した後釜が郭嘉だった。
ちなみに荀彧が紹介した参謀は、郭嘉だけでなく、程昱、劉嘩もそうだったのだが、皆一様に戯志才の後任では荷が重いと一度は遠慮するほどだった。
荀彧は人物鑑定をした際、戯志才を郭嘉と並べ評して、「世俗的な生き方に背を向けていた」と、俗っぽさのない人柄だったと語っている。