字は公祐。北海郡の人。劉備の部下。
演義の孫乾
陶謙が死に際し、劉備に推薦した。
諸葛亮が加わるまで、糜竺と並ぶ劉備の参謀であった。
今日は曹操のもとへ、明日は袁紹のもとへと流れ歩く劉備の
ため、そのたびに使者となり、うまく相手に劉備を受け入れさせた。
汝南で劉備が曹操に敗れた時も、荊州の劉表のもとへ使者として赴き、反対する蔡瑁を論破して、劉表に劉備を受け入れさせた。
諸葛亮が劉備陣営に加わると、その下で能吏として働いた。
赤壁の戦いのあと、周瑜のもとへ祝賀の使者に。
孫権の妹と劉備が結婚するとき、同行して媒酌人となる。
漢中の張魯との戦いでも、張魯の参謀の張松へ賄賂を贈る使者となり、馬超を劉備陣営に寝返らせることに成功している。
正史の孫乾
劉備が徐州の刺史となったとき、召し出され従事となる。
劉備が成都に入城した後、糜竺の次、簡擁と同等の礼遇を受けた。
劉備が蜀の皇帝になると官位を授かった。
その後、まもなくして死亡した。