橋瑁(きょうぼう)、単独で董卓を追撃し、大敗した曹操に、宴席で嫌味を言われた【三国志 演義と正史の比較】




三国志

字は元偉。東郡の太守。名は喬瑁とも書く。

橋玄の一族で、以前兗州の刺史を務めたこともある。

演義の橋瑁

虎牢関の戦いに八軍のひとつとして参加している。曹操が発した撤文に応じて挙兵し、反董卓連合軍の第七鎮として洛陽に進軍したのである。

虎牢関に先制攻撃をかけた王匡が、呂布に大敗すると、袁遺とともに救援し、呂布を退けた。

洛陽入城後は諸侯と同様に、軍を動かそうとしなかった。そのため、単独で董卓を追撃し、大敗して戻ってきた曹操に、宴席で嫌味を言われた。

同じく反董卓連合軍に参加していた、兗州刺史の劉岱に兵糧の借り入れを申しこまれるが、拒絶。恨みに思った劉岱に殺され、手勢も奪われた。

正史の橋瑁

橋玄の一族とされるが続柄は明らかでなく、子の世代にあたる。

威厳に満ちていたが、恩情に溢れた人柄だったという。

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