なぜ劉備は曲がりなりにも曹操に対抗し続けるだけの強力な集団をつくることができたのか?
端的に言うと、劉備が、君臣関係よりも、義兄弟など、情義による結びつきを重視したためである。
しかし、これが劉備が本拠地をなかなか得られない理由でもあったのだ。
情義の絆の、メリットと負の側面、両面を調べてまとめてみました。
義兄弟のちぎり
よく知られているように、演義では、184年、黄巾の乱平定のため、劉備・関羽・張飛の3人は桃園で義を結ぶ。
天と地に、同年同月当日に死ぬことを願う義兄弟となることを誓っている。
正史の陳寿も、皇帝となった劉備と臣下である関羽・張飛が「義兄弟」であったと記す事は無いが、それに極めて近い状態で結ばれていた事にしている。
まさに血のつながった兄弟ようであったのだが、情義で結ばれている点が重要である。
ちなみに三国志演義には、その他に3組の義兄弟が出てくる。韓遂と馬騰(184年)、孫策と周瑜(189年)、張苞と関索(221年)である。
儒教<情義
儒教における君臣の上下関係は、血のつながった実の親兄弟であっても無関係である。例えば、わが子であっても部下は部下である。
この儒教の論理とは別に、情義の結びがある。
後に劉備は、後漢を滅ぼし魏を建国した曹丕に対抗する「公」事よりも、関羽の仇討ちという「私」事を優先して呉に攻め込んだ。
少し言い過ぎかもしれないが、漢王室の滅亡よりも、義兄弟のちぎりを優先したのだ。
情義の絆は、関羽や張飛との関係だけでなく、趙雲ともまた同じであった。
関羽の仇討ちに際して劉備を止めた趙雲も、劉備と牀(寝台つまりベッド)を共にして眠った。まさに関羽や張飛と同質、あるいはそれ以上かと思うほどの関係にあったのだ。
演義でも、例えば、諸葛亮は、劉備の東征は止めたものの、関羽の仇討ちは止めていない。
孔明でさえ、情義で結びついた、劉備と、関羽・張飛・趙雲との関係には踏み込めなかったのである。
劉備の軍団は、こうした情義を中核に置く強力な傭兵集団だったのである。
「公」よりも「私」が重視される集団だったのだ。
流浪の理由
儒教をもとにした「公」を重んじるのが、当時の知識人「名士」である。
劉備は名士を軽視しているわけではなかった。
名士がいなければ、支配地を運営する組織を作ることができないからである。
しかし、劉備の集団は情義が優先される集団だったので、名士たちは定着しなかった。
劉備は、豫州牧になった際に、潁川の名士・陳羣、当時を代表する徐州の名士・陳登の2人を辟召(人材採用)している。
実際に彼らは劉備の配下になったが、その後、劉備に追従していない。
陳羣の献策に劉備が従わなかったことがあった。情義で結びついた集団では、名士の意見を受け入れる土壌がなかったのだ。
陳登は、劉備を高く評価しながらも、徐州を離れなかった。出身地を捨ててまで随従する魅力や将来性が、劉備とその集団には欠けていたのである。
名士を内政を行う幕僚として組み入れることができなかったことが、劉備が一時的に支配地を得ても、保有することができなかった理由である。本拠地を確定することができなかった理由である。
これが曹操との大きな違いである。そしてこうした集団の特性を変えたのが諸葛亮であったことは言うまでもない。諸葛亮は、自身もそうであった荊州の名士(費禕や蒋琬)を抜擢していく。
名士の意識
儒教を身につけ公を優先すべきと考えていた名士たちは、情義で結ばれた武将とはそもそも価値観が違った。
荊州で劉備の軍団加わった、名士である劉巴は、張飛を「兵隊野郎」と蔑視している。
いくら劉備と義兄弟であっても、劉巴は情義によって結びつく社会階層を馬鹿にしていたのである。
ちなみに劉巴は無能な幕僚ではない。諸葛亮に「作戦の立案においては自分は劉巴な及ばない」と評されたほどである。第一次北伐では前将軍に任じられている。
以上、劉備の軍団が強かった理由と、その反面、流浪を続けてしまった理由である。
参考:『人事の三国志』朝日新聞出版など