王甫(おうほ)、関雲長の軍師と言えば、この人!関羽・関平親子の死に殉じた忠臣【三国志 正史と演義の比較】




三国志

演義の王甫

劉備の家臣。荊州の関羽のもと、随軍司馬を務めました。

関羽が裏陽を攻め取った際に、留守にした荊州の守備を懸念し、

樊城の曹仁を攻めようとする関羽に「後方の守りが、廉芳と傅士仁では心もとない」と、超累を荊州に送るよう進言しました。

しかし関羽は聞きません危急に備えて街道沿いに狼煙台を作るように頼むが、狼煙台は呉軍に乗っ取られて使えなくなり、荊州が落ちて傅士仁らは呉に降りました

のちに呂蒙に荊州が奪われたとき「そなたの進言を聞いておれば、こんな目には遭わなかった」と嘆いています。

行き場を失い、麦城に落ち延びた関羽主従は、西川へ逃れようとします。間道は通るなという王甫の進言を、関羽はまたも聞 かず、呉軍に捕らえられてしまう。

城を守るために、周倉と残った王甫は、血まみれの関羽の夢を見ます。その日、呉軍が関羽、関平父子の首を見せ、降伏を呼びかけてきました。

王甫「麦城も、もはやこれまで…関羽殿、あなたの後を追いますぞ…

王甫は、あまりの驚きに、櫓から転がり落ち、身を躍らせて死にました。関羽に殉じた、主人を敬ってやまない家臣でした。

正史の王甫

風貌が立派で、 人物評価や議論を好みました。はじめ益州の劉章に仕え、州の書佐となります。

劉備が益州の主となると、綿竹の令となった。のちに荊州の議曹従事になり、劉備の呉討伐に従いますが、大敗時に戦死。

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