袁紹の参謀。
演義の田豊
公孫瓚との戦いの時、矢ぶすまに遭った袁紹を助け、物陰へ避難させようとした。
ところが逆に「大丈夫たるもの、隠れて生き延びてどうする」と袁紹に怒鳴りつけられてしまう。
曹操が徐州の劉備を攻めた時、後方を襲えと進言。
だが袁紹は、三男の袁尚の病気を理由に兵を出さなかった。
曹操との戦いでは、常に長期戦を訴え、短気決戦に反対した。
だが、これを袁紹は「士気をくじくもの」だと怒り、牢獄に入れた。
袁紹が曹操に敗北したあと、逢紀の「田豊は殿の敗北を喜んで笑っています」という讒言を受け、獄中で自殺した。
正史の田豊
幼い時から、博学多才で名を知られていた。
後漢の朝廷に仕えたが、宦官の腐敗政治に嫌気がさし、官を辞して故郷に戻った。
袁紹に多額の引き出物を贈ら別駕となる。
逢紀の讒言に遭い、袁紹に疎まれるようになった。
曹操が張繍攻めを行なっている時、その留守を衝いて献帝を奪還しろと、袁紹に献策したという。