なぜ曹操には多くの人材が集まったのか?その4つの理由 2/2ページ目




三国志

3.辟召の積極活用

「辟召」は「へきしょう」と読みます。中央や地方の高官が直接、特定の個人を招聘して、自分の属官にする制度。

えん州牧に就任した192年から、魏王として薨去する220年までに辟召した人物は53名にのぼります。

毛かい、程昱、満寵、陳羣、劉曄、司馬朗…地域的な隔たりなく、全国から広く人材を集めていました。

変わったところでは、孫権や馬超も辟召されています。もちろん孫権も馬超は辞退しましたが、国家の制度上は曹操の部下に組み込まれたのです。

いずれにせよ、曹操は腹心の多くを辟召で集めたのです。もちろんその権力の背景には、献帝を迎い入れたことがあったことは言うまでもありません。

4.能力主義

反董卓連合軍は董卓配下の猛将・華雄に手こずっていた。その際に、関羽が自ら志願して、華雄を討ち取らせてくれを頼みました。

袁紹は、関羽が無名な上に馬弓手(馬の世話係)という官職だったので、認めませんでした。

これに対して曹操は、そうまで言うなら…ということで試しにやらせてみます。

その結果はご存知の通り、関羽は見事華雄を討ち取ります。

曹操は、才能さえあれば無名であっても抜擢する能力主義をとる君主だったのです。

曹操は統治する地域に「布告」(=庶民に周知徹底するために、あるいは役人に守らせるための通達)を出しました。その布告の中に人材を集めるものもありました。

その趣旨は、身分の低い地位にある者も推薦せよ。才能のみが採用の基準です。

なぜ曹操はこんな布告をだせたのでしょうか?

曹操の先祖は由緒はあるものの、途中で宦官の血が混じっており、コンプレックスだったことでしょう。そのような背景から実力主義を「布告」というかたちでも実践していったと考えられます。

人事に関わる「布告」の中には、曹操の考え方が反映されています。

その中に、人物の短所や過去の落ち度のみを過大にとりあげて任用基準にすると、適材適所にはならないというものがあります。

採用や昇進に関しての、曹操の公正な人物評価をあらわしていると言えるでしょう。

参考文献:『人事の三国志』朝日新聞出版、『三国志への道標』関西大学出版部

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